1.行ってきます

 「行ってらっしゃい」


 「行ってきます!」


 優しい声で背後から掛けられるいつもの言葉。

 靴を履いて後ろに振り返ったつかさは、声の主、あつしおじさんに元気よく言葉を返して、玄関を飛び出した。




 小学六年生の夏、七月もあと一週間ほどで終わろうとしていた。夏休み目前の朝、夏の日差しが鋭く降り注ぎ、ビルの窓ガラスに反射して眩しく煌めいている。


 司は暑い日差しの中、制服を見に纏い、ランドセルを背負って、学校を目指し歩いていた。


 登校中のこと、それは何の前触れもなく、突如として姿を現した。


 高層ビルの壁に沿うようにして現れたのは、巨大な穴だった。ビルの下半分を覆い隠すように開かれたその穴は、漆黒の扉のようであった。まるで深淵を覗き込むかのようなその黒い穴はよく見ると少し渦巻いており、何もかもを吸い込んでしまいそうな圧倒的な存在感を放っている。


 実際に、都会を行き交う人々の意識は、その空間にぽっかりと空いてしまった穴に、吸い込まれるように集中していた。

 ほぼ全員の視線が、その異界へと続くような漆黒の穴に向けられた時、それは姿を現した。


 漆黒を切り裂くようにゆっくりと現れたのは、真っ白な何か。その姿が時間と共に明らかになってきた。

 現れたのは巨大な顔だった。のっぺりとした白い顔に、凸凹があり、目、口、鼻などの細部がかすかに表現されている。

 まるで天使像のようなその姿は、立ち止まった観衆に神々しい印象を与えた。それは司自身も同様だった。


 完全に姿を現したそれには胴体がなく、後頭部から翼のようなものが広がっていた。

 羽の一枚一枚が生きているかのように蠢いており、気持ち悪さよりも美しさを感じる。

 恐ろしいほど無機質なその存在からは、生の気配が一切感じられなかった。

 それは生きているのか分からないが、不気味なまでに彫刻のような静寂さを漂わせていた。


 現れたそれに観衆は驚嘆し、ほとんど声も出していなかった。逃げ出す者はおらず、携帯電話で撮影する者までいた。何かのイベントだと思っているのだろうか。それにしても異常なまでの興味を彼らはあれに注いでいる。


 しかし、司は違った。最初こそ神々しさに似た雰囲気を感じたものの、齢十二にしてその存在に対する興味よりも恐怖心が勝っていた。あれからは異常な気配がする。司にはそう感じさせる経験や能力はないはずだが、本能的な危機感が強く訴えていた。酷く汗をかいているが、それは暑さによるものではなく、冷や汗であった。


 あれは――やばい――


 まさに今、この場から逃げ出そうとした瞬間、群衆のどよめきを鎮めるように、続けて漆黒の穴――否、扉から何かが現れ、司は立ち止まった。

 それは十人ほどの人影。全員が黒い衣装に身を包み、深くフードを被っている。顔が見えそうで見えない。まるでモザイクがかかったような不確かさが漂っており、見続けていると頭が痛くなった。


 一体あの不気味な顔の正体は何で、彼らは何者で、これから何が起こるのか、群衆の注目の全てがそこに注がれており、いよいよ司も恐怖心と緊張感の間で目を離せなくなっていた。


 群衆の興味と緊張がピークに達した瞬間――司の真横でバタッと何かが倒れる音が聞こえた。音の発生源との距離はほとんどない。

 今まで黒服の集団に全ての意識が向けられていたため、大きな音に全身がビクッと震える。


 いつのまにか眼前の彼らのうちの一人が、大きく手をこちらに翳していた。

 司の全身は今までにない激しい緊張に包まれた。

 心臓の鼓動が激しく高鳴ると共に、喧騒が嘘だったかのようにピタリと止み、周りが静寂に包まれる。

 顔を引き攣らせた司は恐る恐るゆっくりと隣に振り向いた。

 しかし、向いた先には誰もおらず何もなかったが、周りにいた人たちの視線は既に、黒服の彼らや、天使像のような巨大な顔でもなく、司の足元へと向いていた。

 司は意を決して目線を下に向けた――


 目を向けてすぐに、見たことを後悔した。司の顔がどんどんと青ざめていく。血の気が引いていくのが分かった。

 眼下に広がっていたのは、一面赤色の水たまりだった。それはどくどくと止めどなく溢れてかさを増し続けていく。

 そこで見たのは、首から上が消失し、そこから血が噴き出している――無残な女性の死体だった。瞳に映るのは鮮烈なまでの赤色。少しずつ高鳴る鼓動と、肺が狭まるような感覚。ままならない呼吸に、視界が霞んで遠くなるように感じられた。


 未だ理解が追いついていない司の足元に何かが転がってきた。

 ボールのように転がるそれは――その女性の生首だった。

 生首は鮮血を散らしながら、ゴロゴロと音を立てて司の足元まで到達し、その目と司の目が合った。


 時が止まったように感じた。圧倒的な絶望感が司の心を覆う。

 瞬間的に押し寄せる恐怖と嫌悪感、それが混じり合い、冷たくなった司の体は凍りついたように動けなくなった。その女性目は、まるで何かを訴えかけるように、静かに司を見つめてくる。


 苦しい。まるで呼吸の仕方を忘れたかのように、うまく息ができない。眼下に広がるのは、日常とはかけ離れた惨劇。

 その瞳から目が離せない。

 寒い。さっきまで暑く感じられた太陽の日差しでさえ、今の司には届かない。

 冷たい視線と生を忘れた表情が、静かに、そしてゆっくりと、司の理性を奪い去っていく。今にも叫び出しそうなほどに。


 その時、突如として静寂を切り裂くように、女性の甲高い金切り声が響いた。その悲鳴を皮切りに、次々と悲鳴や怒号が上がり始める。群衆がパニックに陥ったのだ。皆、我先にと逃げ出すように走り出した。


 そんな中でも、司は動くことができなかった。周りでは叫び声や地響きと一緒に、爆発に似た轟音なども響いていた。群衆は立ち止まる司を避けるように横を走り抜けた。

 司は未だに、女性の首から目を離すことができない。徐々に意識が吸い込まれていく。

 その瞬間、その女性の口が開き、


 「助けて」


 と、語りかけてきたように司には見えた。


 司の気が狂いそうになったその時――突然、何者かに腕を掴まれた。飛びかけていた司の意識が現実に引き戻される。

 ハッとした司は周囲を見回した。さっきまで集まっていた黒服の集団は散り散りになり、白い巨大な顔は漆黒の闇に吸い込まれるようにして消えていった。


 そして、司の手を掴み、引っ張るようにして走り出したのは自分と同じくらいの少女だった。

 少女が振り返り、とても真剣で焦ったような表情でこちらに話しかけてくる。

 しかし、司には何を言っているのかが分からない。

 頭がぼやっとし、戻りかけていた意識は再び落ちていった――

 





 けたたましく鳴り響く目覚ましの音が、微睡まどろみの中の神代司こうじろ つかさを現実へと引き戻す。


「はぁ……」


 片手でアラームを止め、休まりきっていない体をゆっくりと起こし、深いため息を吐いた。


 今日もまた悪夢を見た。いつも見るのは、同じ夢。この夢を見始めてから、かれこれ四年目だ。内容は司の幼少期のトラウマである。

 月に四回ほど訪れるこの悪夢は、最初の頃こそ司の精神を蝕み、体を壊すこともあった。

 しかし、最近ではその恐怖も薄れてきている。

 今日見たのは、いつも見る悪夢の前半部分だ。続きは近いうちに見ることになるだろう。こういうことを長く繰り返している。


 ベッドから立ち上がり、朝の支度を始める。

 目覚めてからまずはシャワーを浴びている。

 浴室へ向かい、服を脱ぐ。上着を脱いだところで、ふと鏡に目をやると、そこには年齢の割に鍛え抜かれた堅牢な肉体が映っていた。腹筋は六つに割れ、胸板は厚い。

 しかし、それ以上に目につくものがあった。

 身体中の所々に青いあざができている。鍛え抜かれた体には似合わないほどに。


 あざのできた部分に触れると痛みが走った。体中の軋むような痛みが、悲鳴をあげるように感じられた。

 そしてもう一つ、首元にキラキラと輝くものがあった。

 薄暗い色の革紐のようなものから下げられているのは、白い宝石。

 その宝石は立体的で、角ばった形状がダイヤモンドに似ているが、より菱形に近い。

 透明な色彩が美しく、わずかな電球の光でも反射し、キラキラと輝いている。

 その美しさと存在感は、この世のものとは思えないほどだ。


 この宝石の正体は、司にも未だに分かってない。

 しかし、それが司にとって非常に大切なものであることは間違いなかった。


 一呼吸おいて浴室へと入り、シャワーで体を洗い流した。

 さっぱりとはするが、胸の奥に漂う暗い感情まで洗い流すことはできない。

 決してずっと落ち込んでいるわけではないが、心に巣食う二度と晴れることのないこのわだかまりが、まとわりついて気持ちが悪い。


 シャワーを浴び終え、髪を乾かしてから自室へと戻った。自室と言っても、マンションの一角に過ぎないこの空間には、司一人だ。


 一人暮らしゆえに、全ての部屋が自室と同じと考えていいだろう。そのため実際には、寝室と呼ぶ方が正しいのかもしれない。


 寝室へ戻った司はクローゼットの扉を開ける。そこには、三年間着用し続けた制服がハンガーに掛けられていた。見ることさえ飽きてしまったその制服を手に取り、司はふと立ち止まる。


「――っと、そうだったな」


 制服を戻し、その隣に掛かっているビニール袋に包まれた新しい服を取り出した。


 今日から始まるのは新生活。といっても中学を卒業して高校に進む、それだけのことだ。

 長いようで短かった中学校生活を終え、新たな境地に足を踏み入れるわけだが、そこに特別な感動はない。

 高校生になるにあたって、知り合いのほとんどがいなくなった。友達自体が少なかったことも、一因だろう。


 思えば、齢十五にして一人暮らしというのも珍しい話だ。中学生の頃から一人で暮らしてきたが、今となっては世間的にその貴重さも薄れつつある。


 初めて袖を通すはずの真新しい制服も、なぜか初めてという気がしない。

 真新しいことにすら感動しない自分に、わずかな寂寥感を覚えつつ、機械的に制服を身に着け、ブレザーまで袖を通した。白シャツに黒ズボン、そしてブレザー。中学生の頃とそれほど変わらない気もする。

 そもそも制服は用意されているが、着用義務は無く、基本服装は自由だ。

 まあ、毎日着る服を考えるのが面倒くさいから制服を選んだのだが。


 この三年間で身長もかなり伸び、今は百七十八センチまで成長した。制服のサイズもこれくらいが丁度いいだろう。


 立て鏡の前に立ち、改めて自分を見つめる。最近は自分自身をじっくり見ることがなかったためか、その立ち姿に少し驚かされた。背は著しく伸び、体格も一段と逞しくなっている。

 ただその顔からはあまり生気を感じない。無気力、無機質といった感じだ。目元には微かに隈も出来ているように見える。黒髪も少しぼさついていた。


 自分を見るのもそこそこに、朝食を摂るために台所へと向かった。料理は得意だが、朝は手早く済ませるために、いつもパン一つで済ませている。

 トースターにパンを入れ、黄金色の焼き目がつくまで待つ。その間、静寂に包まれた台所に香ばしい香りが漂うが、それにさえ飽きを感じる。

 焼き上がったパンを皿に取り出し、バターを塗った。それから冷たい牛乳と共に、テレビのあるリビングへと運んだ。


 皿とコップを机に置き、自分も腰を下ろしてからリモコンでテレビをつける。

 画面が映し出される前に、パンをひと齧りするが、バターだけを塗ったそれは少々味気ない。とっくに飽きているのに、何故かいつもバターだけを買ってしまう。次はパンと一緒にジャムも買うべきか、と考えに耽る。


 その間にテレビは静かに点いた。今の時間帯、どのチャンネルもニュースばかりだ。司自身、ニュースが見たくてテレビをつけているのだから、それで問題はない。


 『◯◯の△△では、未だ男による立てこもりが続いており、人質の女性の安否が分かっていません。男は金銭を要求しており……』


 雑居ビルとその前で膠着状態にある警察の様子が映し出されており、男性アナウンサーの声で淡々と情報が告げられている。

 司は表情を変えることなく、リモコンでチャンネルを変える。


 『政府が昨年二十二日に閣議決定した二〇三○年度当初予算が、八日に大幅な遅れを経て成立しました。公開された資料には、二月一日の閣議決定により変更された防衛費の増額に関するものも含まれており、その中のの項目が多くを占めて……』


 新たに映し出されたニュースもまた、重々しい内容だった。数年前なら考えられないようなことだろう。パンを齧りながら次のチャンネルへと手を伸ばす。

 次の映像はどこかの国の戴冠式の様子だった。厳かな雰囲気の中、司と同い年くらいの少女が今、冠を受けようとしているところだった。

 あまり興味が湧かなかったため、これがどこの国で誰なのかを考えることも、少女が王冠を受ける瞬間を見ることもなく早々にリモコンのボタンを押す。

 次のチャンネルが映し出された瞬間、司は目を見開き、画面に食い入るように見入った。

 画面にはヘリからの空撮映像が映し出されている。映像は昨夜のものらしい。本来ならば闇に包まれているはずの夜空が、激しく燃え盛る業火によって赤々と照らされている。

 テロップから場所が日本の軍事基地であることが読み取れた。火災の原因は外的要因であり、侵入者による犯行であることも明記されている。

 そして、その侵入者の正体がであるという事実が、重々しく告げられていた。

 画面の中央、燃え上がる炎の中、火の粉に紛れて司と同い年くらいの青年が宙に浮かんでいた。舞い上がる煙に隠れ、その表情はほとんど見えない。煙が濃くなると同時に、少年の姿は消えていた。

 瞬間、脳裏に浮かぶのは4年前の光景。

 燃え上がる炎の前で倒れる大切な人の姿。その前に立つのは黒服の男。火の粉が上がる中、こちらを無気力に眺めてくる。


 姿を重ねてしまった。あの日の光景と。

 司は画面を睨みつけ、拳を固く握り締める。激しい怒りと怨嗟が胸の内で渦巻く。


 連日報道される、神人による連続軍事基地襲撃。その全てに、この青年が目撃されている。

 司の内から湧き上がる悪感情は、憎悪と怒りで満ちていた。強く握った拳からは血が滲み出しているが、司はそれに気づいていない。


 次の瞬間――司の意識は現実に引き戻された。聞こえてきたのはチャイムの音。もちろん誰かが来たのだが、相手の予想はついている。

 司はテレビを消し、まだ半分も食べていないパンを、急いで牛乳で流し込んだ。それから、昨日のうちに準備していたカバンを手に取り、玄関へと向かう。

 靴を履き、玄関の扉を開く。相手は予想通りの人物だった。


 「おはよう!」


 透き通るようでいて、聞くものに安心感を与えるような声だ。抑えめながらも元気な挨拶で迎えてくれたのは、幼馴染の西宮芹奈にしみやせりなだった。

 両手を後ろに回し、体を斜め前に倒して、眩しい笑顔でにこやかに笑った顔は、張り詰めた感情を癒してくれるようだった。


 その姿は高校の制服で身を纏っていた。白シャツと黒色のブレザーに、紺色のリボンとスカート。長く伸ばした黒髪と似合っている。


 芹奈の身長は司よりも低いが、女性の平均から言えば少しだけ高い方だろう。そのスタイルの良さも相まって制服からは体のライン、主に上半身が浮き出ているが、彼女は気にしていなさそうだ。

 綺麗でありつつ可憐さを備えている彼女は、大人しい性格であり、司と違ってコミュニケーション能力も高い。きっと学校でも人気者になるだろう。

 そんな彼女の笑顔は即効性の薬のようで、司は和らぐ感情に身を委ねた。


 「うん。おはよう。」


 司も少し笑って会釈を返した。

 今日は高校の入学式。一緒に登校することになっていた。というか、そんな約束なくてもきっと一緒に行っていただろう。司と芹奈は同じマンションで、部屋も隣同士だ。

 先に尋ねてきたのが彼女というだけのこと。


 司は玄関から出て、芹奈の元へ行こうとする――が、足が言うことを聞かない。

 何故か分からないが、この家を出ることをこの足が拒んでいる。司の行動に、芹奈は笑顔を崩さぬまま、疑問の視線を向けてきた。

 何か気持ちの悪いような感情が、心臓を掴んできたのだ。


 そんな司に痺れを切らした芹奈が、そっと近づいてきた。


 「行こっ!」


 明るい声で司の手首を握ると、引っ張るようにして玄関の外へ連れ出した。芹奈は終始、笑顔を浮かべている。


 俺はまたこの手を引かれて、助けられるんだな――

 司はそんな思いを巡らせながら、芹奈に手を引かれるままに、家を後にした。


『行ってきます』と、誰もいない家に向かって心の中で静かに呟く。

 先ほどまでの司の暗い気持ちも、まるで薄雲が切れていくかのように、微かに和らいでいた。

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