第8話 オーナーはイエスキリストの真似をした

 オーナーは、なにもなかった昔に戻りたいと切望した。

 しかしもう時は遅かった。

 一度、暗黒の世界に入り、黒に染まった人間が、後戻りすることなど、不可能である。


 ホスト通いが長期化すればするほど、国内や海外への性産業へ従事させられるケースがほとんどです。売春あっせんの記録や証拠は、手元にいくつもあります。

 しかし、一度このレールに乗った場合、女性たちが以前の社会環境へ戻ることが難しく、自己責任という名の罠に落とされます。  

 また、ホストがホストの仕事を辞めて、その女性から個人的に上記の搾取を継続する相談事例も頻発しています。

 女性が、違法行為を行い、公序良俗から逸脱して、加担していくケースもあります。

 ホスト商法は、色恋営業から性風俗へ、あらゆる方法を駆使して女性を搾取する構造である。 

(参考図書 一般社団法人 青母連(青少年を守る父母の連絡協議会))


 被害者は女性ばかりではないのである。

 男性も悪に染まっていく。

 オーナーは、歌舞伎町に顔写真の看板がデカデカと、ネオンの元で掲示されていたので、顔は知れ渡っている。

 もう、逃げるところなど用意されていないのが、実情である。

 そして、悪党どもはホストの商売道具の看板ともいえる顔に傷をつけるぞとははっきりとは言わないが、それを匂わせるようなことを言って脅してくる。

「今のきれいな顔、一時間後、いや十分後にはどうなってるか、保証の限りかな?」

 そうやって真綿で首を絞めるように、じんわりと脅しをかけてくる。


 いつものように、オーナーは酒のなかに、微量のいやもうこの頃は、スプーン一杯ほどのドラッグを入れて、我を忘れるまで飲んでいた。

 この頃は、バッグにナイフとりんごを忍ばせている。

 ナイフだけを所持すると、銃刀法違反になるが、りんごがあれば、単なるりんごの皮むきだという言い訳が成り立つ。

 オーナーはいつ死んでもいい、いやどうせ死ぬなら、一日も早く死にたいと切望していた。

 まるで借金の取り立ての如く、一日でも日が伸びるほど、悪に染まっていく。

 死後の世界は地獄行き決定である。


 しかし、今ならまだ間に合う。今日こそあの世へいける。

 いや、今ならまだ神に赦しを乞えば、天国にいけるかもしれない。

 万分の一ともいえる淡い希望を胸に、オーナーは死の道を選んだ。

 誰か自分を殺してくれないだろうか。

 誰でもいい。気づかぬうちに、後ろからナイフで刺してくれたらラクかもしれない。

 行方不明のホームレスまがいの麻薬中毒が、後ろから襲い、背中を刺したというのなら、警察も事故で済ますかもしれない。

 そんな淡い希望(?)を抱えながら、オーナーはいつものように、ホストクラブなおんに足を運ぼうとしたが、なぜか途中で膝を抱えて転んでしまった。


 オーナーはほくそ笑んだ。

 今こそチャンスだ。歩けなくなったら、死ぬしかない。

 オーナーは、毎日バッグに隠し持っていたナイフで、自分の腹を突き立てた。

「これで完結した」と天に叫びながら。

 腹から吹き出た血は、イエスキリストの十字架の死と似ているかもしれない。


 イエスキリストは、人類の罪(エゴイズム)のあがないのため、頭に茨の冠をかぶせられ、処刑道具である十字架にかけられ、血を流しながら死んでいった。

 もしかして、オーナーである俺も、キリストの如くホストクラブなおんの罪をあがなうために、死んでいく。

 まあ、イエスキリストは俺のような自殺ではなく、あくまで人類の罪のあがないのために十字架に架かられたということが、2024年、旧約の時代から預言されていたことである。

 しかし、今の俺は、あくまで気分だけはイエスキリストまがいだ。

 気分だけなら許されるだろう。


 これなら、神様も赦してくれるだろう。

 また、このことが報道されると、やはり世間はそのことに注目が集まり、ホストクラブも改善の方向に進むに違いない。


 オーナーは、クリスチャンでもないのに、なぜかいつも十字架のネックレスをしていた。

 そういえば、大阪難波のグリ下で有名なグリコの看板も、腕を広げていて、見ようによっては、十字架に似ている。

 だから、救いを求める若者が集まってくるのだろうか?


「彼(イエスキリスト)は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53:3)

 オーナーは今、イエスキリストになった気分だった。

 ホストクラブというのは、昔から偏見の目でみられ、後ろ指を刺される。

 大学生が企業で内定をもらっても、前職がホストだったということがわかった途端に、内定取り消しをされるのが、現実である。

 今は、SNSでホストの顔写真が掲載されているし、歌舞伎町では、ホストの顔写真が条例を違反するほどの大きさの看板に掲げられているので、隠しようがない。


 オーナーは、これで自由になれ、金がらみの悪のしがらみから逃れられると思った。

 主に家庭に恵まれない、きわめて自己肯定感の低い孤独な女性が、若いイケメンに優しい言葉をかけられ、なびいていく。

 こんなことは、自己責任でしかない。

 弱肉強食のサバイバル競争のなか、俺たちは若い女性に奉仕し、その代償として大金をせしめる。それがなにが悪い。

 引っかかる女性の方にこそ、スキだらけなんだ。

 今まではそんな独自の理論で、なけなしの良心に無理やり蓋をしてきた。

 しかし、そんなものはまやかしの言い訳でしかない。

 いや、そのことをわかっていながら、逃れることができない自分の方こそ、典型的な社会的弱者ではないか。

 貧困や無知から詐欺にあったりする社会的弱者には、同情の声が上がる。

 しかし、原因がなんであれ、一度悪に染まった人間に対しては、非情でしかなく、容赦なく見放すのが現実社会である。


 オーナーは「これで完結した」と叫びながら、ナイフを自分の腹に突き立てた。

 これでこの世とはおさらばできる筈だ。と思うとなんともいえない安堵感が沸き上がってきた。

 救急車が到着したときには、オーナーはすでに息絶えたあとだった。


 このことは、翌日さっそく報道された。

「ホストクラブのオーナーは自ら自死の道を選んだ。これが欲望の顛末」などと派手な見出しにデカデカと掲載されていた。

 従業員であるホストは、これで売掛金から逃れられたと安堵したという。


 従業員の一人である拓真も、もちろんそのうちの一人である。

 拓真は退店後、先輩の経営する介護タクシーの会社に就職することが決まっているので、前途洋々である。

「僕は、ゆあさんにはまともな人生を歩んでほしいんです。

 僕のことも、そしてホスト業界という異次元のことも忘れ、昼の職業についてくれることが、僕の願いです」

 この言葉に、ゆう子ママは納得したようだった。

 拓真が真の悪党ではなかったということだけが、唯一の救いだった。


 しかし、拓真は悪党の手先になって、ゆあに強制的にシャンパンを入れさせ、ゆあから大金をせしめようとしたことは事実である。

 現在は、ホストクラブの店ぐるみで、千円という格安の初回料金で誘い込み、女性客を値踏みする。

「この子は、グラマーだから風俗行き」などと店ぐるみで、女性客を金にしようとする。

 ゆあもホスト通いが長期化すればするほど、日本の風俗から外国の風俗、果ては外国を相手に臓器売買をさせようとする。

 ラッキーなことに、ゆあは母親ゆう子の思いが通じ、その一歩手前で救われた。


「金銭を愛することは、あらゆる悪の根源である」(聖書)

 大金のあるところには、いろんな悪党が群がってくることは事実である。

 なかには、ハイエナのように身ぐるみはがれ、一文無しどころが借金を背負う羽目になってしまうケースもある。


 いかなる法を制定しても、淋しい女性は男性の甘い言葉へと流れていく。

 創世記の時代、蛇に身をやつした悪魔のささやきー「神は本当に、この実を食べてはいけないと言ったのですか? この実を食べると、目が開け、神のように賢くなれるんですよ」ーの甘言に騙され、神から禁じられている禁断の木の実を最初に食べたのは、アダムではなくイブだった。

 もしかして、悪魔は最初から女性が甘言に弱いということを知っていて、女性に声をかけたのかもしれない。

 なぜ悪魔が、蛇に身をやつしたかというと、悪魔と蛇とは共通点があったからである。

 蛇は賢く、抜け目なく、そして執念深く、蛇に一度締め付けられたら、もう窒息死するしかないということを知っていて、悪魔は自分に似ている蛇に身をやつしたのである。


 オーナーの自死が報道されてから、一週間後、ゆう子ママから電話があった。

「ゆあが戻ってきたわ。一歩間違えれば、地方の風俗を転々とするところだったと言ってた。

 まあ、ゆあは男性体験もなく、モテた体験もなかったから、ホストに引っかかったんだよね。

 これからはホストなど二度と行かない。拓真のことも忘れる。

 じゃないと、拓真も一歩間違えれば、ホストを辞めた後でも、昼の職業どころか、女のヒモかスカウトマンになるという未来が用意されていたのよ」

 そうだなあ、一度黒に染まると、いくら切望しても元には戻れない。


 ふと僕は、小学生の頃通っていたキリスト教会の牧師の説教を思い出した。

「神のひとり子イエスキリストは、人類の罪の身代わりになって、処刑道具である十字架にかかられたのです」

 僕は思わず、質問した。

「えっ、どうしてですか? それならまるで冤罪じゃないですか?

 第一、人類がみな、犯罪者や前科者のわけがないじゃないですか?」

 牧師は静かに言った。

「冤罪というのは、誤認逮捕から始まって、犯人を間違えて罪のない人を逮捕することだろう。

 しかし、イエスキリストは違う。

 人間を創造されたのは神であるが、神は人間に自由を与えた。

 何を信じようが、どういう行動をしようが、自由であるが、やはりエゴイズムという罪を犯すと、罪責感が生じる。

 罪には代償が生じる。誰かが罪の代償をしなければならない。

 そこで神は、その一人子イエスキリストを人間の罪の身代わりとして、十字架で処刑されたのです」


 ふーん。わかったようなわからんような。

 話の内容を理解することは、当時の僕には不可能だった。

 しかし、教会のもつ清められた雰囲気と、牧師夫妻のやさしさ、いろんな人を受け入れようとする社交性に魅かれ、僕は一時期教会に通っていた時期があった。

 讃美歌を歌うと、心が晴れやかになった。

 

 

 

 

 






 

 


 


 


 

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