第26話 姉に押し寄せる魔の手
人間、逃げたくても逃げられないタイミングがある。
ベルベットの場合は妹の薬代を稼ぐときや、上官命令だったり、妹との約束を守ろうとするときなど様々だ。
今回の場合は二番目で、彼女は謁見の間に立っている。
しかも何と質の悪い冗談か、眼前に立つのは敬愛する国王陛下だ。王子ならどうでも良い態度を取れるベルベットでも国王陛下の前では真面目に立つ。なぜならこの人や先王の政策のおかげで国は教会と協調を取り合い、ベルベットは最低限の識字と計算を学んで弟妹達は教会に通えているからだ。
つまり国王は恩人でもあるわけで、そんな人の前で不敬な態度は取れない。
この瞬間も胸ポケットに勲章を差し込む国王に敬礼を行い、なぜか称賛を受ける立場になっていてもそうだ。
新調した制服を着こなし、冷や汗を堪えながら授与式を終えると、ベルベットに真っ先に話しかけたのは着飾ったグロリアである。
真っ赤なドレスが似合う女性もそうそういない。大理石の床を踏みならした彼女は艶やかな笑みを浮かべ、髪に挿していた一輪の薔薇を引き抜き、ベルベットへ手渡す。
「ご苦労様でした、ベルベット様」
「ありがとうございます、グロリア様」
まだ人も残っているのに、公の場で妹と向かい合わねばならないのはなんて罰なのか。
微笑を浮かべると薔薇を受け取って、花弁に口付ける。とりわけご婦人方が若干高めの声を上げるのをベルベットは聞いたけれど、彼女が目を向けるのはひとりだけだ。
本来なら、このままグラスに注がれたワインでも傾けて歓談に赴くのが賢いやり方だ。しかしながらベルベット的に、勲章授与式に参加しただけでも及第点だ。それらしい振る舞いもガワだけを被ったものだから、貴族連中が満足するようなお喋りなどできるはずがない。
従って中身がバレないうちに逃げるのが賢いやり方だ。そうそうにグロリアから離れると、適当に上品な挨拶を交わしつつ、隙を縫って裏側に隠れる。表情筋を一気に崩すと人目を避けるように廊下を抜け、ドアをノックしたのはエルギスの仕事場だ。
部屋の主の許可は求めない。
「お邪魔しまーす」
「邪魔するなら帰ってくれ」
「やったーありがとうございますー」
言うなり疲労困憊の体を長椅子に横たえる。息が詰まりそうなほど詰めた衿を緩め、片腕を目に押し当てるベルベットに、調合中の薬草から目を離さないエルギスが言った。
「帰れ」
「まあまあそんなこと言わず。挨拶が面倒くさいんですよ」
「あんたの本部があるだろ。僕の部屋は休憩所じゃない」
「わたしに個室なんてあるわけじゃないですし、残念ながら今日は隊長の部屋であろうと安全圏じゃないんですよ」
「この僕の部屋に来るにはそれなりの理由が必要だ」
義手になった腕を掲げてみるも、エルギスの反応は芳しくない。ベルベットは理由を考えるのが面倒くさくなった。
「いいじゃないですか、友達なんだから」
「そんなものになった覚えはない」
「すみません、わたしが決めた時点で友達なんですよ」
理由作りは完了だ。
呆れてしまったのかエルギスも黙り込んでいるし、ひと休み……といったところで顔から腕を放した。
「そーだそーだ。エルギス殿、この義手なんですけど、魔法仕込みなんでしょ」
後ろを向くエルギスの耳が赤い。
熱でもあるのかなと思いながら続きを問うた。
「たとえば魔法剣みたいに瞬時に武器を持つとかそういうのできないんですか」
「できないことはないだろうけど」
「お」
「いまのところ従来の腕と変わらず扱えることだけを目的にしているから、術式によっては違和感が出てくるかもしれない」
「おお……?」
「あと高いぞ」
「…………うーん」
グロリアとの話以来、今後も命の危機に迫るかもしれないと考えてのことだったが、エルギスが高いと言えば手が届くのか怪しい。
諦めてごろ寝を継続すると、おもむろにもらったばかりの勲章を外し、天井に掲げながらぼんやり見つめる。
半分眠たげな眼差しで改めてエルギスへ問うた。
「……これ、売ったらいくらになりますかね」
「おい」
「やっぱりまずい?」
「ギディオンに説教を食らいたくなかったらやめておけ」
「そっかぁ……」
「お前のところにセノフォンテとかいう阿呆がいたろう。あいつが騎士総長から授与された勲章を売って処分を食らっていた」
「あの人も意外とやってるな……」
眠気に負けて大きな欠伸をこぼした。
休み明けの早朝出仕のせいでやたら眠い。
授与式は終わったけれど、諸々落ち着くのはもう少し時間を要するはず。昼前になったら仕事に戻るかと、今度こそ瞼を閉じた。
…………はずなのだが、なにやら体が窮屈だ。
微睡みは完全な覚醒には至らない。
話し声が邪魔になってゆっくり目を開くと、ちょうどベルベットのお腹の辺りを押しやるように誰かが座っている。
エルギスに疎まれながら談笑している斜め後ろの横顔はエドヴァルドか。
近くにもう一人立っているのに気付いて顔を上げると上官がベルベットを見下ろしている。
緩慢な動きで目を擦ると目やにができていた。
「…………青筋浮かべて、そんなだから子供受け悪いんじゃないです?」
「貴様、サボりの第一声がそれか」
「式典はちゃんと出たじゃないですか……」
まともに喋ろうと努力しているが、なかなか難しい。
一応エドヴァルドの前だ。凝った首をごりごり動かしながら上体を起こし、足を引き寄せると、王子が振り向いていた。
「君は昼は私と昼食をとる予定になっていたのだけどね」
ベルベットは窓を見やるも、生憎差し込む光だけでは時間を計れない。ただこうしてエドヴァルドが参じているのなら、とっくに昼は回っているのかもしれなかった。
「エルギス、知ってたんなら起こしてくれません?」
「わざとサボったのかと思った。あと、呼び捨ては許可していない」
エルギスのつれない態度は無視し、首はそのままギディオンへ向ける。
「聞いてませんが」
「…………そうだな。こればかりは知っていて当然と考えていた俺のミスだ」
てっきり怒鳴られるかと思ったが、伝達ミスはギディオンの責任らしい。
聞けば午前に式典が開催された場合、授与者と昼の卓を囲むものらしい。しかしベルベットは儀礼的な知識に一切疎いわけで、相当なミスをやらかしてしまったわけだ。だがその話を聞いても、当の本人は「ふーん」とつまらなさげな感想を漏らすだけだ。
この反応にエドヴァルドが残念がるように目元を細めた。
「どうやらわざと逃亡したわけではなさそうだけど、私との食事は嫌だったかな」
「いえ? まあそれが仕事だっていうなら別にって感じですけど」
「仕事か」
自嘲気味に笑うエドヴァルドをよそに、ベルベットは嘆息する。わざわざ探しに来たらしいギディオンへも呆れたように言った。
「だったらサボったのは正解でしたよ。腕の調子が悪かったとかそんなんで誤魔化したらいいんじゃないですかね」
「すでにセノフォンテがそのように手配している。お前がこういった催しに疎いのではとも予測していた」
「さすがー」
上官はギディオンであっても、実はセノフォンテとの方が話す機会が多い。
感心するベルベットへだが、エドヴァルドは彼女の発言を聞き逃さなかった。
「でない方が正解だったとはどういうことかな」
ベルベットはいや、と手を振る。
「大した理由じゃないですよ。わたし、食事のマナーを一切知らないんで」
「ああ、そういう……」
見世物になるくらいならサボったと思われた方がかなりマシだ。
そろそろ王子の近くで座り続けているのも拙いと思うのだが、服の裾を掴まれているので逃げにくい。
このままでは思う存分背伸びもできないし、どうやって逃げるかを考えていると、さらに部屋のドアが叩かれた。
返事も待たず、まるで蹴り開ける勢いで扉を開いたのは薔薇の如き装いをした美しい乙女だ。つまりグロリアである。
「失礼します! エルギス様、ハーナット様がこちらにいらっしゃると伺いました!」
彼女の傍にはグロリアの勢いに呑まれて目を丸めるコルラードがいる。
貴族令嬢としての振る舞いはどこへやら、ずかずかと部屋に踏み込むグロリアが見たのは、上官と王子に挟まれる愛しい姉だ。
さっと顔を青ざめさせるグロリアは「ひ」と喉から悲鳴を上げ、ベルベットへ駆け寄ると胸に抱き込む。
「姉さんになにするの、このケダモノ共!!!」
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