第18話 惚れの前兆
微睡みからの目覚めは平和だった。
ただし深く眠りすぎたせいで頭が痛い。
寝汗をかいたのか頭は痒く、全身がべとべとしていた。枕元に置いてある水桶とタオルを使って首元を拭きながら立ち上がると、軽く室内を回って嘆息を漏らす。
「ここどこ?」
柔らかな布団で覆われたベッドに刺繍が施された掛け布団。簡素だが作りの丁寧な家具が配置され、調和のとれた室内は居心地が良さそうだった。
着心地の良い綿の寝衣に包まれながらも、行儀悪くテーブルに腰掛けて記憶を辿ろうと試みる。水差しから勝手に水を汲み口を付けると驚いた。
「なにこれ、檸檬水だ」
水の中に薄切りにした檸檬やオレンジが入っている。
ベルベットは寝ていたし、飲むかもわからない水にこんな手間をかける意味はどこにあるのだろう。ちびちびと水を口に含みながら喉を潤す。
――王子を庇ったんだっけ?
寝起きの頭でもそのくらいは覚えている。煙と埃にまみれたエドヴァルドや己の服の汚れを覚えている。
あれから治療してもらったようだから、こうして立っているというならベルベットは助かったのだ。おそらく目覚めるまでこの部屋に安置されたのだろう……と判断して、おかれてあった肩掛けを羽織りドアノブを握った。待てど誰も来ないし、人の気配もない。着替えもないから寝衣も替えられないので勝手に部屋を出た。
そこは思ったよりも広い建物だ。
ベルベットが出てきた部屋のような扉が幾つも存在しており、また天井も高い。廊下に出て彼女はやっとここがどこかに思い至った。
宮廷だ。
ただし、このように白を基調とした場所は思い当たらない。
人の気配もなく適当に進み始めると、目の前に一匹の猫が現れた。それは他の猫たちとは一線を画し、高い知性を宿す眼でベルベットを見つめる様は古代の賢者のようだ。
人間の言葉でも話しそうだった猫は、だが「にゃあ」と高い声で泣くだけだ。尻尾をくねらせると歩き始め、首を曲げてベルベットに振り返る。
ついてこい……そう言われているようで猫の後を追えば、やがてひとつの部屋にたどり着く。
壁は書物や魔法具が陳列され、床には魔法陣が描かれた絨毯。棚には薬瓶が並び、中には輝く液体が封じられていた。謎めいた符号が刻まれた宝石に、魔具の類。部屋は一種の聖域のような空気で満ちているが、雰囲気を和らげているとしたら窓から差し込む太陽光だ。
怪しげな室内で、いっそう怪しい黒尽くめの男が振り返った。
「起きたか」
「起きました」
エルギスだ。
魔道士はベルベットに椅子に座るよう指示すると、袖をまくり腕を差し出すよう要求する。言われるままに片腕を差し出すと、男は腕を掴み、掴んだり開いたりと繰り返す。ベルベットの表情までつぶさに観察しながら、指の一本一本まで念入りに確認を行う様は真剣だ。
「何が起こったかは覚えているか」
「怪我したんだなあということなら一応」
「そうだ。途中で目を覚ましたことは覚えているか」
「全然」
「傷は治せたが、あんたはなかなか目を覚まさなかった。まあ、大怪我からの治療直後はよくある話だ。珍しい話ではないんだが、色々あって僕の元へ身柄を預けられた」
「……あー、じゃあ、ここは」
「宮廷にある僕の仕事場だ。ついでにあんたみたいな怪我人を時々預かっている」
エルギスは一体何を調べたいのだろう。ベルベットが不気味がっていると、エルギスはようやく「異常なし」と呟いた。
「……右腕、なにかあったんです?」
「その言葉自体が異常を感じていない証拠だな」
「一体何のことですか」
エルギスはこの反応に、やや満足げに頷いた。
「まあ、気付いていないというなら僕の仕事が完璧だという証左だ」
おもむろにパチン、と指を鳴らした瞬間だ。
ベルベットは腕に違和感を覚え、先ほどまで触られていた腕を押さえる。
「……え」
それしか言えなかったのは、あるはずの腕がからっぽになっていたせいだ。左指は中身のなくなった服だけを掴み、両目は見開いて腕を見下ろす。
――二の腕の半分から下が、ない。
エルギスがもう一度腕を鳴らすと質量が蘇り、また腕が出現した。流石に混乱に陥る彼女に、エルギスは小さな椀にお茶を淹れて差し出す。何度もお湯で煎じたのが丸わかりの、味の薄い茶だった。
「は、え、なんで。これどういうこと。なんでわたしの腕が」
「具体的な説明が必要か?」
「と、当然では!?」
「なら説明しよう。エドヴァルドを庇ったあんたは死にかけだった」
「……そんなにひどい怪我ではなかったはずでは」
「そんなわけない。あれは犯人の女が、自らの命すら巻き込んだ自爆特攻だ。あんたはエドヴァルドの代わりに爆破や、仕込まれた破片を背中からまともに浴びた」
それはそれは酷い状態だった、と淡々とエルギスは語る。
ベルベットの記憶では身動きできる程度の状態のはずなのだが、実際は背中からごっそりやられ、頭部も怪我を負った。
「どのくらい酷かったかというと、普通の魔道士なら遺言を残してやるために望み薄な治療をかけて、聞き取りを開始するような状態だった」
「……それはどうも?」
「どういたしましてだ。ただ、僕の腕なら肉体の再生だけは間に合うかもしれなかったが、それ任せにしてたらあんたの意識が持つかどうかが怪しくて」
「それで?」
「腕を背中の肉に置き換えて足しにした」
聞き間違いだろうか。
彼はベルベットを助けるために腕を切除し、その血肉をもって背中の治療を優先したと説明している。
己の理解力が悪いのか、念のためもう一度尋ねてみたら、同じ返事しか返ってこない。
「そんなんありなんです?」
「簡単にできる魔法じゃないが、元が同じ肉体だから置換は難しくない。おかげで再生が間に合って命を繋げた」
「……この腕は?」
「義手だ。肩を触ってみろ、魔力の腕を形成する魔具を埋め込んでいる」
言われたとおり肩に触れると、一部皮膚の下に固い感触が存在する。
名状しがたい感情を整理するために頭を垂れ、長い息を吐く。
エルギスはこのような事態は初めてではないのかもしれない。苦悩に歪むベルベットの瞳に何を思ったのだろう。悠然と構えていたが――。
「いくら?」
の、一言に固まってしまうも、彼女は真剣に訊いて、頭の中でそろばんをはじいている。
「これって高級魔具でしょう。実際この手のものがあるのは知ってましたけど、市場に出回ってないことくらいは知ってるんです。どのくらい働いたら返せるものなんです?」
「…………聞きたいのは、そこか?」
「……普通そこが気になるのでは」
義手義足の類は存在するが、いまベルベットの腕に付いている義手のように、存在したり消えたりを繰り返せる、本物の腕と変わらぬ感覚と見目の義手など聞いたことがない。
ベルベットはエルギスに無理矢理握手を求め、強めに腕を振った。
「命を助けていただいたことに文句なんかありません。むしろありがとう。働ける状態を維持してくれた貴方に心から感謝してるので、なんなら貴方を称えて賛美歌でも歌っても良いんですが」
「やめろ」
「私の美声をお求めではなさそうなのでやめておきます。とにかくこの腕いくらですか。末端の近衛でも払える額ですか。もしや一生国家の奴隷でしょうか」
せっかくゆとりのある生活が始まったのに、定額返済が始まっては計画が狂う。
詰め寄るベルベットはエルギスの期待した反応ではなかったのだろう。拍子抜けした様子で彼女を見つめ、呟いた。
「……あんた、変なやつだな」
「価格を気にしたことですか? ちょっと外に出れば同じ考えの人はわんさかいますし、興味あるなら人を紹介しましょか。友達なんですけど良い子ですよ」
「そういう意味じゃないからやめてくれ」
エルギスは貴族階級出身だから、やや貧乏寄りな市民に馴染みがないのだろう。
大真面目に答えていると、ベルベットの知りたい返答は第三者によってもたらされた。
「今回は無料だよ」
第一王子エドヴァルドだ。
ベルベットと同様、猫に導かれてきたらしい。上官たるギディオンやコルラードも一緒だ。
エルギスと握手を交わすベルベットを、エドヴァルドはやや気まずげに見つめる。それは以前と違い彼女をいない存在として扱うわけでも、学園の時のように揶揄う様子もない。
「ベルベット、身体に支障はないようだね」
「あ、はい。おかげさまで。そちらも無事でなによりです」
「…………そうくるか」
なにがそうくるか、なのだろう。
空気が重くならないよう配慮してお礼を言ったはずなのに、エドヴァルドの瞳は気鬱に揺らいでいる。
無言で手を差し出されるも意図がわからず突っ立っていると「手」と言われた。
「義手を見せてもらえるかな」
「どうぞ」
お手、わん、くらいの調子だった。
医者の真似事で脈を確認するのは良いのだが、あの時のエドヴァルドの無事を確認した仕草をそっくりそのまま返されている形だ。彼の親指が髪をかき上げれば額をなぞる。くるりと身体を回転させると背中を確認して、どこか安心したような声を漏らした。
「……ちゃんと"ある"ね」
「肉が?」
空気が凍ったのはベルベットの責任ではないはずだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます