第17話 家路につくために
まるで頭蓋骨を打ち砕かれてしまったような衝撃で頭が揺れる。意識が遠のいたかと感じたものの、なぜかまだ意識がある。耳が甲高い音を脳に伝えながらぐらつく頭を起こせたのは、きっと自身に対する叱咤などではなく、反射的なものなのだろう。
ベルベットはうめき声を上げながら、下敷きにした人を見た。エドヴァルドは彼女と同じく衝撃で音が遠ざかっているようだが回復も早い。
エドヴァルドの頬に触れ、乱れた髪を掻き上げるのは確認だ。幸いにも怪我もなく粉塵で汚れた程度で、彼女なりに役目は果たせたらしい、と弱々しい息を吐く。
状況を理解したのだろう。目を見開くエドヴァルドに問いかける。
「怪我……ない、ですね」
思ったよりも声量がでない。
体も重ったるい。背中が熱く、じくじくと痛みが走り、時間が経つごとに脳を刺す刺激が増して行く。安否を確認できたのなら気絶しても良いはずだ……そう思ったけれど、遠くから聞こえる声が、彼女の意識を引き戻した。
回復した耳が、混乱の中でもしっかりと妹の声を捉えたからだ。
「みんな落ち着いて、無事な人はお互いの安否を確認して! それから先生を――!」
グロリアは無事だった。
普段ベルベットの前では感情的だから、てっきり錯乱でもするかと思ったけれど、心配は杞憂に終わったらしい。
彼女の成長が垣間見られたようで嬉しいような、寂しいような……苦笑を漏らして、大人げない感情に笑った。妹の成長を素直に喜べない姉でどうするのか。
けれど心配しているのは間違いない。ここはひとつ無事な姿を見せて、いつもの調子に戻らねば。すっかり解けた髪が邪魔になっている中で、四肢に力を込め起き上がろうとすると――さっきからエドヴァルドがベルベットを見ていたらしいと気付いた。
「君、どうして、私を助けた」
「どうして……って、そんなの……」
まるで意外だったと言いたげだけれど、ベルベットもそうだろうな、と思う。なぜなら彼の言葉は理解できるからだ。彼女自身、自分のこの行動は予想外だった。直前まではこの王子はろくでなしだとずっと信じていたし、どうなっても良いと考えていたのが本音だ。だからスティーグとのやりとりを聞くまではどうでもよかった。
背中の熱は意識がはっきりしてくるにつれ増し、額から脂汗を流しながら、呻くように呟いた。
「……きょうだい、と、喧嘩別れは、寂しいでしょ」
エドヴァルドが目を見開く最中に、ベルベットは先のエドヴァルドとシモンの会話を思い出す。あれをなかったことにしたかったのは、知ってしまった自分を誤魔化したかったからだ。
第二王子のスティーグは阿呆だと思う。可愛いグロリアを公の場で振った最低の大馬鹿野郎だ。エドヴァルドのこともそんなに好きじゃない。けれどエドヴァルドのスティーグを見守る視線は柔らかく眩しげで、わずかな苦痛を忍ばせている。そういう類のもので……だから目をそらしたかった。
種類は違うかもしれないが、兄弟を想う感覚はベルベットにも覚えがある。どれだけ馬鹿をやっても、わがままを言われても、時に他人様に叱られるような悪戯をしたとしても見捨てられない、絶えない親愛の情だ。
ベルベットにとって、グロリアに不自由をさせるエドヴァルドは嫌な人間であってほしかった。ゆえに自分たちと変わらない一面など見たくなかったけれど、あの一瞬で思った。 諍いが解決しないまま別れるのは……きっと寂しい。
だから庇った。
ここで助けなかったら後悔する、とベルベットは自分で知っていたからだ。
結果がこれなのでなんとも無様だが、王子は無事だから、よくやった方だと彼女は自分を褒めたい。
腕に力が入らなくなり、崩れた体をエドヴァルドが支える。いつの間にか近衛の同僚達も駆けつけており、二人の安否を確認する声が行き交っていた。
そんな中で彼女を励ます声が耳に届く。邪魔なはずのベルベットを押し退けず、真正面から抱き抱えながら支えていた。
「しっかりしろ。まだ眠るな――!」
「や、そんな、おおげさな……」
そこまで深い傷でもなかろうに、エドヴァルドが必死に意識を繋ぎ止めようとする。
瞼が落ちかけたところを邪魔され、乾いた笑いをこぼしかけたところで、エルギスが到着したらしいと声で気付いた。
「エルギス、早く彼女の怪我を治せ!」
「もうやっている」
「助かるか?」
「普通なら間に合わないが……誰が治していると思っている」
よってたかって重傷者扱いが癪なのだが、途中で思い直した。もしかしなくとも、ベルベットが考えていた以上に体の状態が酷いのだろうか。次々に近衛の同僚が集まってくる気配を感じると、彼らやギディオンすら焦っている声が耳に届く。
背中が熱い。
なぜか怪我を負ってないはずの頭も痛い。
目がチカチカと赤い光に満ちた次の瞬間には、ベルベットの手を握るグロリアが視界いっぱいに入り込んでいるではないか。目に涙を浮かべ不安そうに瞳を揺らしているから、心配するな、と言おうとして目の前が真っ暗に落ちて行く。
まるで深夜のようだった。周りは真っ暗闇の中、星明かりと手元の明かりだけを頼りに、愛馬に揺られた帰り路を思い出す。
――そうだ、あの日。
遅くまで働いたせいで全身が重い中を、遠くに微かに見える家の灯りを目指した日があった。
まだ十代だった頃だ。前の上官との契約が決まる前は貯蓄もわずかで、毎日空腹とは行かずとも満腹には程遠い食事が続いていた。この頃のベルベットの仕事と言えば店番、掃除、皿洗いと掛け持ちだ。もっと学校で勉強を続けたかったけれど朝から子守、小さな畑と家畜の世話に追われれば暇はなくて諦めた。
弟妹達は可愛かったけれど、まだ聞き分けも悪かった時期で、家に帰っても自分の時間がないから足が重い。残りの金を持ってこのまま逃げてしまおうか、なんて埒のあかない考えにふけては自己嫌悪に陥っていたか。
わずかな灯りに向かって足を動かす。
ベルベットを励ましたのは妹と、亡き母・ミシェルとの約束だ。
グロリアには『お姉ちゃんはみんなをお願いします』と頼まれた。
母の病床に伏せる痩せた姿が鮮明に脳へ焼き付いている。彼女はあまり過去を話したがらなかったけれど、サンラニア以外の国からやってきた人で、複雑な事情を経て私娼になったらしい。娘に負担を強くことを悔やみながら形見を渡してきた。
子供のベルベットには重いくらいの、ずっしりとした鍵だった。少し汚れ歪んだ金具には宝石が散りばめられている。紫の尖晶石を小さな金剛石が囲っていた。
宝石に詳しくなくても値打ちものだとひと目でわかるけれど、一体何に使うのかはわからない。
母はもし本当に困ったときはこれを売っても良いと伝え、そして娘を残していくことを悔いて謝った。
この時はもう、自らの死期を悟っていた時期だ。
彼女は両手で成長しきっていないベルベットの手を包み、肩をふるわせていた。
「ごめんね。お母さん、もうあんまり生きられないみたい」
「うん、大丈夫。あとは心配ないよ」
「ベルに全部押しつけていっちゃうことを許してね」
「大丈夫だって。……だから泣かないで、お母さん。わたしはちゃんとやれるから」
ぎゅっと抱きしめてもらった体温が懐かしく、二人分の約束が子供のベルベットを支えてくれたからこそいまがある。
ベルベットは暗闇の中で家路を辿りながら……あれ、と我に返った。
なぜこんな昔の事を思いだしているのだろう。
家に帰るために駆け出したところで試みは虚しく、体ごと闇の底に引きずり込まれた。
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