第2話 望まぬ出会いは突然に
鞄一つだけを持ったグロリアが、いる。
衣装のグレードを落とし、格好こそ平民の女子と変わらないけれども、立っているだけでも隠せない、にじみ出る雰囲気が目を離せない娘だ。
ベルベットは寝起きのぼさついた髪も、何事かと後ろから顔を出した弟の存在も忘れて口を開いた。
「……グロリア?」
「はい、グロリアです」
にこにこと愛想を振りまく、名前を呼ばれただけなのに嬉しそうなベルベットの妹。
“玲瓏なる一輪の華”などと……孤高の花だからと揶揄された姿はどこへ行ってしまったのだろう。十年前を彷彿とさせる活発な眼差しは、かつての妹そのままだ。
懐かしい気持ちが胸を過る。つい迎え入れかけるも、理性で自らを押しとどめた、乾いた口を動かした。
「なんで、ここに」
「もちろん帰ってきたからです。昨日、姉さんに言ったとおりですよ」
「帰るって、あれ、本気で……」
「冗談で言うわけありません。私にとっては、姉さんや弟妹達がいるハーナットが実家ですよ」
「そ」
「ずうっと、いつか帰るんだーって、そう思っていました」
もはや声が出ない。
はくはくと口を動かすだけのベルベットを尻目に、状況は進んで行く。玄関で立ちすくむ姉に疑問を覚えたのは、弟のリノだった。
「……姉ちゃん、なにやってんの?」
訝しむ声に反応して、グロリアの表情が明るくなる。
しまった、とベルベットが遮る前に二人は顔を合わせてしまった。
「リノ、もしかしてそこにいるのはリノかしら!」
「…………グロリア?」
いっそ「誰?」と言ってくれた方が良かったかもしれないのに、弟の記憶力の良さが災いした。
グロリアとリノの年の差は二歳しかなかったから、当時五歳だったリノもグロリアを覚えている。
室内に飛び込んだグロリアがリノに抱きつき、リノもまた、状況を理解できないなりに彼女を抱きしめ返す。
「え、ええと……グロリアが、どうしてうちに……」
「もちろん帰ってきたから! あなたにも会いたかった、ずっと会いたかったの」
甘えるように繰り返す姿は、本当に『あの』グロリアなのだろうか。リノは知らないけれど、養子に行ってからのグロリアは、年相応に感情を表に出す真似はしなかった……と聞いている。少なくともベルベットが遠くから見ていた分でもそれは同じだ。
まんまと中に家に入り込んだグロリアは懐かしそうに室内を見渡す。
「お家は相変わらず狭いけど、もう居間にベッドを置いて寝てないみたいだし……外見、あんまり変わってなかったけど増築してないの?」
「一部屋だけしたよ。隣で皆一緒に寝てる」
「リノ、教えなくていいから」
注意するも、リノはグロリアに冷たくなりきれないらしい。
ハーナットはお世辞にも裕福な家ではない。たとえ養子縁組で受け取った金があったとて、それは変わらなかった。むしろ財布事情は寒いくらいだが、それを説明する暇はない。
すっかり乙女の顔立ちに変貌を遂げた妹は尋ねる。
「ねえ、あれから男の子二人を養子にしたんでしょう。それにお母さんが女の子を産んだって聞いたわ。私、会ってみたいのだけど隣で寝てるの?」
「あ、あー……それなら……」
嬉々として尋ねる姉に、しどろもどろで答えようとする弟。ベルベットは頭痛を堪える面持ちで待ったをかける。
弟には隣室の様子を見てくるよう言い含めると、グロリアは座らせずに問うた。
「グロリア……あの子達は寝てるから声を抑えて。それとあまり聞きたくないけど、侯爵家はどうしたの」
「やだ、ここにいるのがその答えよ」
「それはわかってる。侯爵になんと説明して出てきたかを聞いてるの」
「話してはないわね。置き手紙をしてきただけだから、もう少ししたら目を通すんじゃないかしら」
「それってどんな内容にした?」
「養子縁組の解除をお願いします、ってお手紙と手続きの書類」
頭を抱えた。
「貴女の護衛や侍女には何か言った?」
「いいえ? もう私の召使いじゃないから、必要ないもの」
散歩に行ってくる、みたいなノリで言わないでほしい。
彼女は気軽に言ってみせるが、侯爵家の娘が家出の挙句、平民の家に逃げ込んだのを匿ったなんてバレたら、良くて投獄悪くて処刑だ。
目をグルグル回しながら、こめかみから汗を流す。
そうだ、ようやく思いだしてきた。
幼い頃からグロリアはこんな娘だった。
こんな時はどこに届けを出せば良いのだろう。仕事上の上司に説明すれば助けてくれるだろうか。しかし相手が侯爵となれば、いくら上司と言えど危ういかもしれない。
相談相手は間違えられないのだ。ベルベットは一応王立騎士院所属の身分になっているが、それは書類上の形だけ。正確には貴族身分の騎士に雇われている、王宮の隅っこや街を走り回る
悩み悩んで出した結論はひとつだ。
いつの間にか勝手に席に着き、くつろぎだしている妹の前で、わざと机を叩く。隣室に影響がない程度にだ。
「侯爵家に帰りなさい。ここは貴女の家じゃない」
「嫌です」
「グロリア、いまは貴女のわがままが通用する場面じゃない。一度正式に契約を交わした以上、貴女はデイヴィスの人間だし、ハーナットでもない。つまり貴女と私は姉妹じゃない」
ベルベットは厳しく詰めるのだが、小憎たらしいことに相手は微塵も怯まない。ただ少し……きつめの口調で責められたのは気に障ったのか、拗ねたように表情を作った。
「姉妹じゃないなんて、ひどい。私がもらわれて行くときは、どこにいたって家族だからねって言ってくれたのに」
「それは世間を知らなかった子供の頃の話。いまは私も分別ついた大人だし、貴女だって成人間近なのだから、常識を考えなさい」
「あらまあ、常識なんて言葉を持ち出してるけど、そんな嘘で固めたって意味ないんじゃありません?」
「嘘? 嘘なんてついてない」
反論すれば、グロリアは鈴の音を転がすように笑った。
「いいえ嘘よ。だって姉さん、私のことをずっと気にかけていたじゃない」
「は?」
「姉さんは侯爵家に近寄れない。だからわざわざ伝手を頼って、宮廷や学園近くを通って私の様子を見にきてた。昨日だってそうよ、警邏に潜り込んで、私の晴れ姿を見届けようとしてくれてたんでしょう」
「なん……!?」
「心外なのはこちらよ。私が気付かないと思ったの?」
違う、と言おうとしたけれど、失敗したのは、バレていた事実に動揺したためだ。
その通りだった。ベルベットには縛りがあるから、堂々と妹と相対できない。だが昨日のように大勢入り込む誕生祝いのパーティなら、ぎりぎり伝手を頼れば警邏として入り込める。
うまい嘘が言えず黙り込むベルベットをグロリアは見守る。それは先ほどまでの無邪気さを殺し、何もかも見透かすようで、どことなく居住まいが悪い。
こうと決めたら頑固な部分が変わらない。
変わってない、と心中で独りごち、どこか懐かしさを覚えつつも、表面上は苦々しげに目をそらした。
「……なぜ侯爵家を出るの」
「目的を果たしたから」
「その目的って?」
「婚約からの婚約破棄です。詳しくは言えないけど、それを終えたら私は戻るつもりだったし……」
どことなく意地の悪い笑みを浮かべる。
「役に立たないなら出て行っていいって親戚には言われてたから、その通りにしました」
言葉に偽りはないように見える。しかしベルベットは彼女の目を見つめ、しばらくおいてため息を吐いた。
「……言えない事情があるなら仕方ない。わたしが踏み込んで良い話じゃないわけだ」
「嘘は言ってないんだけど」
「でも隠しごとはしてる」
「なんでわかるんですか」
「そういう顔をしてる。そんだけ」
強いていえば、咄嗟に話を誤魔化そうとする癖が直っていなかっただけ。ほんの一瞬だけ唇が動く瞬間をベルベットは知っていたのだけれど、理由は隠した。覚えていてくれた、なんて喜ばれては元も子もないからだ。
それにどうやら、グロリアなりに何か込み入った事情があるらしいと気付いた。熱くなった頭を冷やそうと深く息を吸う。
……帰れと言ったところでグロリアは言うことを聞かない。こんな綺麗な娘を一人で帰すのは、襲ってくださいといっているようなものだから、どのみちベルベットが送りとどけねば無理だ。
しばらくの沈黙をおいて、長い長い息を吐く。
「本気なんだ?」
「もちろんです。だって、小さい頃に話してたでしょう。私の夢は、少なくともお妃様なんかじゃなかった。それはいまも変わってないの」
「……お妃様になるから安泰とか言ってなかったっけ」
「やだ、そんなの覚えてたんですか。身の安全って意味でいっただけで、それとこれとは別」
「…………で、その夢って?」
「秘密」
えっへん、と、まるで幼い頃を彷彿とさせる胸を張る姿は、控えめにいっても可愛らしい。一瞬庇護欲に駆られたが甘い顔はできない。
「わかってるだろうけど、どう足掻いたって貴女の保護者はデイヴィスだし、無断で預かれない。昼になったら、私は貴女をデイヴィスに連れて行く。来ないって言うなら、迎えを来させる」
「頭の固い姉さんですね。そんなことしたって私は帰らないのに」
「なんとでも言いなさい。あと、姉さん呼びはしないで」
「そんなこといって、嬉しいくせに」
嬉しいに決まってるとも。
だがそんな甘えを持ってしまったら、彼女を帰せなくなってしまう己がいると、ベルベットは自分を知っている。
まったく、久方ぶりの会話がこんなもので良いのだろうか。
「ところで姉さん、目の下に隈ができてます。寝てないの?」
「大人には色々あるの」
誕生パーティに潜り込むための、連日連夜の無理な勤務が祟っていたのだ。デイヴィス家に向かうのを昼と決めたのも、いまなお寝不足が祟って身体が重いせいだ。せめて一刻だけでも眠ろうと、残りをリノに任せ、隣室の薄布団に崩れ落ちるように倒れ込む。
意識がなくなるのはあっという間で、次に目覚めたとき、彼女の目覚めを促したのは乱暴に戸を叩く音だ。
怒りながら身体を起こした。
一緒に寝ていたはずの弟妹達の姿はなく、居間ももぬけの殻だったが、彼らを気にかける余裕はない。頭は回らず、大股で部屋を跨いで行く。
不躾な客人に一喝すべくドアノブを握った。
「うるさい、しつこく叩くな!」
乱暴に戸を開けて、その人と目が合った。
黒い瞳の男性だ。鼻梁の整った顔立ちに、均整の取れた身体付き。身に纏うのは裾の長い上着と外套で、腰には立派な剣を下げている。
その男性と、男性の背後にいる人達を視界に納め、彼女は失敗を悟った。
なにせその人達には見覚えがある。顔見知りではないけれど、一方的に知っている有名人だ。
近衛隊長と、侯爵家の長男と、あとおそらく王族の……見間違いなければ第一王子がいる。
――詰んだ。
あらゆる走馬灯が頭を駆け巡り、ド下手くそな辞世の詩を謳いだす。
この世との別れが決まった瞬間だった。
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