「俺にできることがあるなら任せとけ」

 夜明けと共に、僕と桜井はアパートをそっと抜け出した。始発の電車には僕らの他に人影は疎ら。まだ日も昇っていない時間だもの。

 仮眠でもとってくれば良かったかな、と思うけど、寝る気にはなれないか。


 終点の手前三駅、電車から降りたのは僕らだけ。日曜日だし、わざわざ市役所くらいしかない駅に用がある人間なんてそうはいないだろうね。

 僕らは大通りを道なりに進み、市役所前の広場を抜けると、小高い丘へと続く階段を登って自然公園を目指した。公園のはずれ、錆びた柵に囲われた一角に目的のモニュメントがある。


 モニュメントに付けられているタイトルは、『マザー』。女性らしき人物がカーネーションの花束を抱えて座っている像だ。厳密には裸のマネキンのようにシンプルな外見なので性別は分からないんだけど、タイトルから僕は女性だと思っている。


 昨夜、神様は言った。『マザー』を止めろ、と。

 止めるっていうのがどういうことなのかよく分からなくて訊ねたら、神様曰く壊すので大丈夫とのことだった。指示された場所はちょうどここ。

 場所に関しては、聞かなくても分かったけどね。僕の中で『マザー』と言ったらこれだ。まさか僕の母さんなわけないし。


 モニュメントの材質はよく知らないけど、『マザー』はとても古くからそこにある。小さな頃はこれが神様の姿を模したものだと思ってた。まさかその神様にこんなお願いをされるなんて思ってもみなかったよ。


 場所が場所だし、この時間なら誰も来ないはず。早朝ランニングとか鍛錬とか、そういうのをやりたいならランニングコースや芝生エリアを利用するだろうから。しばらく、近所のやんちゃな子供達が秘密基地の候補地でも探しに来ない限りは安泰だ。


「どうやって壊す?」

 僕が口に出すより先に桜井が訊ねた。奇遇だね。僕も同じことを悩んでる。

「どうしようね」


 さっき材質は不明と言ったけど、もちろん紙や木で造られているわけじゃない。簡単に破壊なんてできやしないだろう。

 とりあえず来てみただけの僕らには、準備も技術も何もなかった。

「辺見、なんとかなるか?」

「無理だよ、何かすごい武器でも……ない限り……」


 あ。

 僕と桜井は顔を見合わせる。きっと思いついた解決策は一緒。僕が動く前に桜井がスマホを出す。電話をかける相手は当然、彼だ。


「——もしもし、七東。こんな時間に悪いな。今、ちょっと外に出られるか?」


 桜井は場所を告げ、なるべく人目につかないように急げ、と釘を刺してから電話を切った。


「七東、来るって」

「よく文句言わなかったね。夜明け前だよ?」

「向こうがしっかり目覚める前に一方的に話したからな」

「なるほど」


 僕は七東がここに来てくれると聞き、安心する一方で後ろめたさを感じてしまう。桜井に今回の件を相談するか躊躇った時と同様だ。


「七東に話すか話さないか、それはおまえが決めろ」

 僕の表情から、桜井は何を言わんとしているのか分かったんだろう。迷ってることも、悩んでることも。

 七東の家はここから近く、彼のことだから本気で走れば到着には十五分もかからない。僕に与えられた猶予はそれだけ。


 『マザー』を見つめて考える。

 七東は、僕がやろうとしてることに対して何を思うだろう。怒るかな、呆れるかな。それとも、僕らを哀れに思ったりするんだろうか。

 そう想像して、今更ながらに気になった。そもそも僕ら非転生者について、彼はどう思っているんだろう。


 七東、仏倉、鈴木。みんな僕らに優しい。転生の有無に関わらず、普通の友達として接してくれていると感じる。

 ——でも、心の中では?


 僕の頭に神様の言葉が浮かぶ。

 僕らは彼らの人生を華やかにする為の小道具。対等だと思ってもらえなくたって仕方のないこと。

 そう考えたら、僕に課せられた神様からのミッションに対して否定的な思考を持ってもおかしくはない。さらに言ってしまえば、僕という存在そのものにもそういったマイナスの感情が向けられる展開だってありえる。

 考えたくはないけど、元々僕ら非転生者を見下していたって当然なんだから。


 なんてさ、そんなことを考え始めると、僕は僕自身がどんどん嫌いになってしまいそうだ。なんてことを思ってるんだよ。


 七東も、みんなも。僕にとって大切な友達だ。向こうもそう思ってくれてるさ。友達を疑うような奴じゃないだろ、僕は。


「……よし」

 七東に、きちんと話そう。話したうえで、彼の意見を聞こう。それが一番いい。

 隠したまま協力させるなんて卑怯な真似で

自由を得ても、きっとお互い気持ちは晴れないだろうから。


「来たぞ」

 桜井の声に顔を上げると、例の靴を履いた七東が軽やかに僕らの方へと駆けてきた。

「おい、目立つなって言っただろうが」

「だから黒ずくめの服で来ただろ?」

 悪いと思ってないのかふざけてるのか、七東は明るくおどけた口調で言った。僕も桜井も笑わなかった。


 七東はいつもの雰囲気じゃないとさすがに気付いたらしく、ばつの悪い様子で頭を掻きながら尋ねる。

「……で、こんな時間にどうしたんだよ。辺見は何か知ってる?」

 どうやら七東は桜井がこの集まりを企画し、僕のことも呼び出したのだと思ったようだ。まあ、電話したのは桜井だもんね。


 桜井はさっさと先に進めろ、と言わんばかりに僕を小突く。

 分かってる、分かってるよ。けど、心の準備ってものがあるんだ。急がなきゃいけないのも、分かってるってば。


「あのさ、七東。ちょっと真面目な話していい?」

 僕が覚悟を決めて話を切り出すと、七東はほんのちょっと表情を固くする。浮かべた笑顔を消して、僕の方を向いて頷いた。


「いいよ。俺が聞いていい話だったら」

「ありがとう」

 そう改まって言われると、僕の方も緊張してしまう。

「初めに言っとくとね、結構相談しづらいものでさ……」


 僕の態度から、なんとなく空気を察してるんだろう。七東の方も何を言われるのかとそわそわしているだろうに、僕に配慮してくれているのが伝わる。

「俺にできることがあるなら任せとけ」


 何気ない一言がすごく頼もしい。彼を巻き込むことは申し訳ないけど、僕は少しだけ気が楽になった。

 もう進み始めたんだ。迷ってはいられない。七東の気遣いに僕も応えなきゃ。


「それじゃ、えっと……まず、七東は神様って」

 信じてる?


 そう問おうとした時だった。


 小さな歌声が聴こえた。

 耳に馴染みのない途切れ途切れの音なのに、僕は聴こえるそれを歌であるとなぜか認識した。


 歌声は徐々に大きくなる。いや、違う。正しくは少しずつ、僕らの方へと近づいてきているのだ。


「何だ……これ……」

 驚くことに、最初に膝をついたのは七東だった。頭を押さえて、侵入する歌声を必死に止めようとしている。無駄だ。この歌には抗えない。

 桜井は表情を険しくし、立ち尽くしたまま動かない。あるいは、動けないのかもしれない。


 僕も耳を塞ごうとしたけど、身体がうまくいうことをきかなかった。まるで自分の手足じゃないみたいだ。意識がふらふらとして定まらず、まるで目眩の中で見る世界が現実になったかのよう。

 気持ちが悪いのに、なんだか夢でも見ているみたいで嫌じゃない。変な感覚。


 音に実体があるとすれば、この歌声は脳と心を直接揺さぶるような、そんな響きだ。聴いているだけで、不思議と僕の中に強い衝動があふれてくる気がした。


 『マザー』を壊さなければならない。


 歌声が耳の中で踊る。

 世界に平等を。転生に終わりを。死に安らぎを。

 身勝手なシステムに、理不尽な運命に。その怒りをひたすらにぶつけてみろ。


 ささやくように、歌声が僕を煽る。

 そうだね、うん。そうだよね。


 ——僕が世界を変えるんだ!


 歌声に身を任せると、僕の手足に力が戻る。僕はぼろぼろの柵をよじ登ろうと手を掛けた。これを越えたら、標的となる『マザー』はすぐ目の前だ。


 あ、待てよ。ダメだ。越える前に考えるべきは、どうやって壊すかだったね。

 でも問題はない。答えは目の前、七東の武器を奪えばいい。どうすれば手に入るだろう。


「七東。何でもいいから武器を一つ貸してもらえないかな。なるべく、破壊力のあるやつ」

 事が穏便に済めばいい。僕はそう願いながら友人に頼んだ。

「武器……って。そんなもの、何に使うんだ」

「この像、『マザー』を壊す」

「どうして」

「決まってるだろ。世界を変える為だよ」


 僕はきちんと答えた。なのに、七東はよく理解ができないようだ。僕へと怪訝な顔を向ける。

 どうして僕のやりたいことを分かってくれないんだろう。友達なのに。


 七東が協力してくれないなら、別のところから調達するしかないや。

 武器屋……は。難しいな。非転生者ぼくには商品を売ってくれない。

 他には、あ。そうだ、ホームセンター。ゴーレム駆除に使う園芸用小型爆弾なら、子供からお年寄りまで誰でも買える。でも、店が開くのは十時だ。そんな時間までは待てない。


 僕の思考は最初の案へと戻ってきた。やっぱり、七東から奪うしかない。


 もう一度、彼の方を向く。今度は遠慮なんてしない。じっと相手の目を睨みつけて僕が本気であると解らせる。


「改めて聞くね、七東。武器を僕に渡せ」

「悪いけど、断る」

「どうしてさ」

「決まってるだろ。俺は世界を守る勇者でありたい。辺見の言う世界を変える、ってのがもし世界を敵に回すことに繋がるのなら……」

「それなら、どうするつもり?」

「……もう、おまえは俺の敵だ」


 なんて物分かりの悪い奴だろう!

 協力するとかしないとかじゃなく、僕と敵対するつもりだなんて。


 七東は小声でぼそぼそと何かを言った。歌声で聞こえなかったけど、何を言ったのかは分かる。武器召喚の詠唱だ。


 彼は呼び出した槍の先を僕へと向けた。ここでリーチの長い武器か。なんて卑怯な。僕に近付くことすら許さないつもりだね。

 けど、ここで退く気はない。世界を変えろという強い決意が僕を突き動かす。


 七東は僕を世界の敵だと言ったけど、それは違う。僕は世界をより良いものにする為に現状を変えたいだけだ。


 僕はゆっくりと七東の方へ足を運ぶ。薄暗い中でも、彼がしっかりと槍を構えているのは分かる。向こうも本気のようだ。

 それで僕を刺す気か? やってみろよ。

 僕は歩みを止めない。七東は槍を振り上げた。


「——ぁあもう! この馬鹿共が!」


 吼えるように桜井は怒鳴り、僕に攻撃をしようとした七東の腕を後ろから羽交い締めにする。

 咄嗟のことに七東の手から槍が滑り落ちた。刃が桜井に当たったように見えて一瞬ひやりとしたけど、どうやら無事らしい。七東も焦ったのだろう。抵抗をやめておとなしくなった。

 でも、降参したわけじゃない。七東は武器を別のものに変更して再装備しようと何かを口走りかけて、はっとした顔でその口をつぐむ。


 気付いたね。この体勢では僕に一撃喰らわす前に桜井が傷つく。

 勇者として市民を巻き添えにするのはプライドが許さない。七東はそういう性格だ。


 僕は七東が躊躇っている隙に、彼の落とした槍を拾いあげようとした。

 重い。尋常じゃなく、重い。ただの長い棒じゃないんだ、これ。僕の力じゃ引きずるだけで精一杯。振り回してる七東は言葉どおり、レベルが違う。


 それでもやるしかない。

 僕は意を決し、槍を持ち上げようと腕を大きく上げ——そして、そのまま。バランスを崩して尻もちをついた。

 手にした槍が突如消えたからだ。僕は宙を掴めなかった。


 そうか。別の武器を出すのは難しくとも、今の武器を消すのは問題ないもんなあ。やられた。


 まさに膠着状態。

 僕は七東に攻撃されたくないけど、武器が欲しい。対して七東は武器を出したくないけど、僕を倒したい。

 さあ、どうするか。


 睨み合う僕らに、桜井は苛々した様子で再び怒鳴る。

「ほんッとに、いい加減にしろよ! 何やってるんだおまえ達!」

「だって」

「だってじゃない辺見! 冷静になれ! 静かにこの曲を聴いてろ!」

「聴いてるよ。この歌を聴いてたら、僕はなんでもやれる。そんな気がしてきたんだ。だから僕は、今なら神様の頼みを——」

「それは今じゃない!」


 桜井は僕の話を遮り、叩きつけるように言葉を吐く。なんだか、少しだけ悲しそうに見えた。


「桜井……あの」

「頼むから、黙っててくれ。曲が終わるまででいい。それから、話し合おう」

「でも」

「この曲は、おれにとって特別なんだよ」

「……?」


 どうして、と僕が訊ねようとしたのと同じくして、桜井は絞り出すように言った。


「——『blue sky』って曲だ。間違えるわけがない。何度も何度も、にだって聴いてたんだから」


 ……え、待って。

「待ってよ、それってさ」


 予想もしない一言に僕の頭は真っ白になる。そんな、それって。もしかして。


 その時ふっ、と。歌声が止まった。それと合わせて、溢れるようにわいていた勇気と決意も萎んでゆく。


 僕の頭はぐちゃぐちゃになりそうだ。奇妙な歌声、不思議な衝動。それに桜井の発言。


 歌が聴こえなくなると、ちょっとは冷静な思考を取り戻せたのか今更のように思う。桜井のことは気になるけど、まず。


 僕は、なんであんな行動を?


「あ……辺見」

 声の方を向くと、桜井から解放された七東がポケットに手を突っ込んでこちらに頭を下げていた。


「その、ごめん。槍とか向けて。マジで申し訳ないんだけど、俺さ。さっき辺見のこと……殺す気だった。かも、しれない」


 歯切れ悪く謝罪の言葉を述べる。不思議と気持ちが分かる。彼もまた、僕同様に混乱しているに違いない。


「僕の方こそ、よく分かんないこと言ってたと思う。七東にはちゃんと説明するつもりだったんだけど、なんか。そんなことどうでもいいから今すぐやらなきゃ、みたいな。そんな気分になっちゃって。ごめん」


 僕らはお互いに頭を下げて、もやもやとしたままひとまず和解した。桜井はそんな僕らを、相変わらず悲しそうな表情で眺めている。

 僕自身にわいた謎の衝動ついてはすっきりとしないけど、それはそれとして。


 言葉を選びながら、桜井に尋ねた。

「あのさ、桜井。さっき聞こうとした、続きだけど……さっきの歌、知ってるの?」

 桜井は曖昧に、ゆっくりと頷く。


「知ってる。全部、思い出した。これもすべて『blue sky』のおかげだ」

「な、何を? 『blue sky』って、さっきの歌のこと、だよね?」

「おう。りりなんの代表曲だな」

「僕、聴いたことないけど……」


 自慢じゃないけど、りりなんの歌は桜井に聴かされまくっているので一応全部知ってるつもり。代表曲とまでいうのに、知らないわけがない。


「この世界では未発表だからおまえは知らない。この曲を知ってる者は限られてて、それでここまで完璧に歌えるのは——」


 桜井は溜息とも深呼吸ともつかないような深く息を吐く。辺りを見回して、そしてそこそこ大きな声で。

 叫ぶ。


有賀里菜さんりりなん! まだ近くにいらっしゃいますか! あなたのファンです、ッ!」


 しんと静まり返った公園がざわめいた。ような気がした。


「……さすがにもうこの辺りにはいないか。せっかくであれば感謝を伝えたいと思ったんだが。ああ、ついでに。辺見と七東の奇行の原因に心当たりがないかとかも聞けたら、と思ったのに」


 桜井は落胆を隠さない。僕は混乱を隠せない。

 彼の発言に色々と思うところがあるんだけど、とりあえず。


「ぜ、前世……?」


 僕はきっと呆けたような顔をしているんじゃないかと思う。そこであんぐりと口を開けてる七東みたいに。


「桜井、おまえ。覚醒したのか?」

「ああ。『blue sky』を聴いたら突然ブワッと記憶が戻ってきた」


 桜井は胸に留めたカーネーションのバッジをそっと外すと、仄暗い空に向けてかざす。清々したのか、名残惜しいのか。花を見つめる彼の内心は分からない。

 僕は複雑な気分だった。


前世かこ目の前いまが同時に視えて、頭はしっかりしてるのに動けなかった」

「うわ、俺も経験あるそれ。ガチだ」


 桜井は完全に自分の世界に入ってしまったようで、バッジをズボンのポケットにしまい込むと、こっちが聞いてもないのにいきなり語り始めた。


   ◎


 私は日々に疲れていた。

 がむしゃらに勉強をして、進学して、就職して。それなりに昇進もしたけれど、才能ある同期と比べたら出世なんてしておらず、ただ机の上に積まれた仕事を片付けるだけの毎日。

 やりがいなんてない。生きる為に金がいるだけだ。金を稼いでも、使う趣味もなく貯めるだけ。それなら上を目指さなくとも、日常をつつがなく過ごせるだけの額があればいい。


 三十歳を過ぎた頃にこのように思い始めて、そのまま惰性で生きている。四十代を目前にした今、私は生活において頑張ることの意味を見失いかけていた。


 ある夜のことだった。

 付き合いで行った事実上強制参加の飲み会。酔い潰れて帰らないと騒ぐ同僚をなんとかしてタクシーに押し込んでいたら、終電を逃してしまった。損な性分だとは思うが、面倒をみないわけにもいかない。


 自分もタクシーを捕まえるか、と思ったところで、始発を待ってもたかだか数時間だと気付いた。上司の話に合わせてばかりでたいして呑んでもいないし、明日は休みで予定もない。

 せっかくなら始発までどこかで時間を潰すか。そう思った私は、チェーンのファミリーレストランに入った。


 深夜ということもあり客は疎ら。私が隅の席へと座ると、数分後に大学生くらいの年齢のカップルがその斜向かいに入ってきた。せっかく静かそうな店内奥を選んだというのに。

 私の危惧したとおり、二人は席に着くなり周りを憚らずに談笑を始めた。気が滅入る。けれどもう注文もしてしまったし、今から席を移るのもそれはそれで面倒だ。

 あまりに酷ければ、そもそも店を移ろう。そう決めた私はひとまず注文品が運ばれてくるのを待った。


 寂しい店内、大声での会話は嫌でも耳にはいる。内容から、カップルはどうやらいわゆるアイドルオタクのようだ。無趣味な私にとって、芸能関係など特に詳しくない世界である。しかし、惚気を聞かされるよりは充分ましだ。

 オタクの仲間内にのみ通じる専門用語の類いはよく理解できないが、とある女性アイドルグループを贔屓しているのだろう。断片的な情報からそれが分かった。私が疎いからなのかそのグループについて全くの無知。名前すら初めて聞くほどの存在だ。


 聞こうとせずとも聞こえる話によると、元々そのアイドルは三人組だったが、その内の一人がグループを抜けてソロとして活動を始めたらしい。器量もダンスもそして歌も、その辞めたメンバーが足を引っ張っていたようだ。彼女が脱退したことで、残った二人はメジャーデビューまでこぎつけた、と。


 カップルの女の方が言うには、最初から二人で良かった、『りりなん』は要らない。男もそれに重ねるように、どうせ『りりなん』はソロでも失敗する、と続ける。


 食事をしながら、私は酷く嫌な気分だった。


 そのアイドルのことは知らない。けれども、グループを抜けてもソロで活動しようとするくらいには自分の仕事を頑張っているのではないだろうか。それなのにこの言われよう。なぜか無性に腹立たしい。

 私は皿を空にすると、苛々した感情を抑えるため足早に店の外へと出た。


 今度こそ静かに過ごしたい。そう思って少し歩くと、ちょうど駅からやや離れたところにある公園に目が留まる。

 都内とはいえ郊外、深夜であれば誰もいない。ベンチに一人座って、始発まではあと二時間程だ。

 普段なら適当に電子書籍でも買って時間を潰すところ。けれど、この日の私はさっき耳にしたアイドルの話が気になって仕方がなく、気付けば彼女についてスマホで検索していた。

 

  有賀里菜アリガ リナ。愛称はりりなん。元『e-JOYs』のメンバーで、現在はソロで活動中。ソロデビューシングルの発表日からしてまだ独立したばかりのようだ。

 グループ所属時のライブ映像などを観てみたが、私には他のメンバーと比べ、彼女が特別に劣っているようには感じなかった。

 まあ……確かに歌い方はやや特徴的と言えるかもいれないが、それも個性。私は嫌いではない。


 ただ、妙に引っかかった。どの映像を観ても、彼女の表情が楽しそうには見えなかったのだ。

 笑顔もダンスも、必死に綺麗にみせようとしている。けれどそれは自然な魅力とはいえず、無理をしているように感じだ。


 だから私は調べてみたのだ。彼女のソロデビュー曲、『blue sky』。人々に勇気を与え、応援を届ける歌らしい。本音を言えば、ただの興味と暇潰し。そこまでの期待はなかった。


 ——結果、私の人生は変わった。まさに青天の霹靂と言えよう。


 私は曲を聴くなり思った。あのカップルは見事に騙されていたのだ。彼らは全く分かってない。

 彼女が周りについていけない? 違う。いるべき場所の方が、彼女に合わなかったのだ。

 彼女は青い空を飛ぶ鳥。水の中を泳ぐのには向いていない。それを魚と比べてなじるのは愚かだとは思わないか。


 私は夜明けの公園で独り笑った。彼女の自由さを前に、心が晴れる思いだった。そしてひとしきり笑って、気付けば。今度は涙を流していた。


 歌って踊る。同じことをするのにも、環境や感情が変わればこんなにも違う。

 いつもそれなりの仕事をそれなりにこなすだけの自分は、彼女と比べてあまりにちっぽけだった。それを思い知らされた。


 けれど、彼女は『blue sky』を通して人々に伝える。自分の胸の内にある希望や信念、その先の未来をしっかりと掴んでゆく力を誰しもが持っているはずだ、と。

 その時から私は彼女——りりなんを推すことに決めた。


 子供の頃より同級生に合わせて塾に通ったり、スポーツを始めたり。読書やゲームも自分から手を出すことはなく、周囲に勧められたなら気まぐれにやってみる。

 これといった趣味を持ったことのない私が人生で初めて自分から飛び込んでいった世界は新鮮で、ただただ楽しかった。


 りりなんをきっかけに趣味を語り合う友人達ができてプライベートは充実し、稼ぐ目的がはっきりしたことで仕事の能率までも上がった気がする。事実、社内評価はこれまでになく良いものとなった。

 私にとってのりりなんは生き甲斐とも呼べるほどに大きな存在となり、彼女のおかげで私は人生に意味を見出した。


 ——それから月日は流れ、数年。

 もちろん、私はその間ずっとりりなんを推していた。もはや彼女は生活の一部、いや生活の中心だった。

 チケットが手に入る限りライブに通い、各種イベントに参加し、ファンレターも定期的に送る。あまりにしつこいと迷惑だろうから、過剰にならない程度に気を付けた。そのあたりは抜かりはない。節度を持ったファンであり続けるために。


 楽しみにしていたは、ソロデビュー四周年の記念イベント。ステージの後に握手会。当然私も参加する。

 私はざわめく会場で列に並び、ひたすらに順番を待った。まだまだ全国的な知名度は低いが、推し始めた当初と比べると確実にファンの人数は増えている。

 待つことに苛々する人間もいるけれど、私にとっては待ち時間すらイベントのうち。ファンが多いことはりりなんにとっても嬉しいだろう。


 いよいよ、私の番が近付いてくる。私の前の同志は数人。そろそろだと思うと改めて緊張する。何年経とうとも、私は彼女の前では平然と振る舞える気がしない。

 しっかりせねば、と前を向く。あと二人、次はちょうど私の前に並んでいた男だ。


 私もそれなりに長くファンをやっているつもりだが、彼には見覚えがなかった。平均より背の高い私ですら、見上げるほどの大男。見たことがあれば覚えているはず。


 新規ファンだろうか。そう思い、すぐに考えを改める。彼のポケットからのぞくストラップは『e-JOYs』の初ライブのグッズ。新規どころか、私よりもはるかに古参のファンだ。

 彼は落ち着かない様子でりりなんに話しかける。背丈だけでなく声も大きい。私の方にもしっかり聞こえるほど。彼もまた緊張しているに違いない。


 ああそうか、なるほど。見たことがないのは地方勢かもしれない。もしかしたら彼はりりなんと直接会うのが初めてなのか。

 私はそう解釈し、あたたかい目で彼を見守ることにした。時間はおしているが、りりなんに気持ちを伝えるくらいは待とう。そう思った。


 妙な空気を感じたのはその直後。

 男は突然りりなんに訊いた。


「どうして『e-JOYs』を捨てたんだ」


 きょとんとした表情のりりなんを前に、彼は上着のポケットに手を入れる。ひどく嫌な予感がした。

 視界の端に銀色が光る。


 ——あれは、包丁か?


 私は駆け寄り、彼の腕を押さえようとした。無意識の行動だった。

 決して英雄になりたいだとか、りりなんに好かれたいだとか。そういうことを考えていたわけではない。

 覚えているのはいくつか。逃げる同志たち。固まって動かないスタッフ。私の方へ何かを振りかざす大男。会場に流れる『blue sky』と、りりなんの悲鳴。


 最期に聞いたのがりりなんの声で良かった。

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