第1話 吾輩の朝は早い。
吾輩の朝は早い。
「おーい!起きろお前ら!ひよっこ冒険者共が、お前らに乗りたくてうずうずしてんだ!」
建て付けの悪い大きな鉄の引き戸が、耳をつんざくような不快な音を立てて勢いよく開け放たれた。引き戸の合間を縫って、馬宿店主のお爺さんが吾輩達のユートピアに遠慮もなしにづかづかと身を乗り出してくる。
時刻は午前6時になんなんとしている頃だろうか。馬宿店主の背後から、吾輩の寝起きの網膜を焼きつくさんとばかりに朝日が顔を覗かせていた。
吾輩は射るような鋭い日差しをできるだけ避けながら、腹ばいに寝転んでいた状態からのっそりと起き上がった。睡眠時間は十二分に取ることができたはずなのに、体を見えない何層もある重い膜のようなものに覆われているような疲労感があった。周りに目をやると、我がドーミトリーメイトたちも皆一様に昨日までの疲れが尾を引いているようだった。
「お前ら!こいつみたいにさっさっとご主人様を見つけてこんな所出て行くんだぞ!」
吾輩の隣の少しくすんだ青い体色をした馬の背を撫でながら、馬宿店主は声高に我らに言い聞かせた。どうやら誇らしげに豪快に鼻を鳴らすこの馬は、昨日のうちに適当な主人が見つかったものらしい。
そのつぶらな瞳にはとても収まりきらないほどの優越感をだらだらと垂れ流しながら、青とも灰ともつかない毛色の馬はなんともキザな流し目を吾輩の方へと向けてきた。吾輩が歯牙にもかけず超然としていると、青灰の彼は眉間に皺を寄せてそっぽを向いてしまった。彼が人間であったならば、ハンカチを引きちぎらんばかりに一端をギザ歯で、もう一つの端を両手でくしゃっと握りしめ、両目から滔々と激情の涙を流して、より分かりやすく怒りを露わにしていたことだろう。
彼が吾輩に対してこのような並々ならぬ執着を向けるようになったのは、吾輩に新たな主人に見初められようという気が毛ほどもないことを彼が悟ってからのことだった。
青灰の彼がこの馬宿を訪れる冒険者たちに見初められようと日々汲々としているのを横目に、吾輩は試乗に訪れた若者たちの青い尻をなるだけ痛めるに徹した。
というのも吾輩は、この馬宿での安心してぬくぬくと熟睡できるおがくずがたんまりと敷かれた寝床と、朝昼晩の中々豪勢な食事を心底気に入っていた。一度味わってしまったからには、そうやすやすとこの華々しい生活は手放せるものではなかった。
が、塞翁が馬という言葉が示すように、吾輩の馬宿での生活は絶えず幸せと不幸せの間をころころと転がり続けた。
吾輩はこの馬宿に連れられて以来、毎日の様に押し寄せる新緑にも負けないみずみずしさに満ち満ちた若者達が、吾輩の背に吾輩に有無を言わせず跨り容赦なく鞭を振るうのを甘んじて受け入れてきた。だがしかし何処の馬の骨とも知らぬ若輩にされるがままというのも癪である。
この生活を永遠のものとするため、日を追うごとに降り積もる私怨を晴らすため、吾輩は試乗に訪れた若者達の青い尻をなるだけ痛めるに徹した。その甲斐あって、吾輩がこの馬宿に初めて訪れた当時の顔ぶれから依然として不動の地位を貫いたのは吾輩と先述した青灰の彼だけであった。
疑問に思われたことだろう。なぜ青灰の彼までもが、吾輩と同じく不動の地位を欲しいままにしたきたのか。その答えは至ってシンプルなものである。彼は誰もが思わず救いの手を差し伸べずにはいられないが、どうにも手の施しようがないぶきっちょだった。
吾輩がこのぶきっちょという言葉を用いて表さんとするのは、彼自身は至って真剣にあり余る活力を主人候補に気に入られるべく使おうとして、みるみるうちに目していた道から大きく膨らむようにして逸れていき、ふと来た道を振り返ると、当初の思惑とは全くもって異にした所へと辿り着いてしまうことに日々汲々としているところである。
彼はいつ何時も見習い冒険者の身を気遣い、我が背に乗る間は決して危険な目にはあわすまいと誓っていた。
それゆえに乗馬経験の乏しい彼らの言うこと為すことを唯々諾々と受け入れるのを良しとせず、どれだけ拍車をかけられようとも、ロバのごとき低速を心掛けるようにしていた。
だがしかし、未来の主人に対する思慮深い思いは彼らに届くことなく宙ぶらりんになり、彼はあろうことか足が遅い駄馬の烙印を押されてしまった。
では今度は主人の意思を尊重し、盲目的に従ってみたらみたで、危うく眼前の小山に激突しかけて、大惨事となりかけた。
万事において彼は、両極端のうちのどちらか一点でしか存在し得ないのだった。
だが捨てる神あれば拾う神ありと言う。哀れな彼にも買い手が見つかったようでなによりだ。
胸中で青灰の彼に小さく祝杯を挙げる吾輩をよそに、昨日までの疲れはどこへやら、青灰の彼を含めた他の馬達は若者達とともに風を切り、彼らの気が済むまで果てしない高野をいつまでもいつまでも駆け回るのを心待ちにしているようだった。
吾輩は喜色満面をそれぞれの面に浮かべる群れの中でただ一人(ここはただ一頭か)、さらなる速力を求めて全身全霊をかけて壊れたように鞭を振るい続ける若者と、そんなに速さを求めるのならもっとやる気のある別の馬にしろと全身全霊をかけてぬかるみに振り落とす吾輩との間で繰り広げられる不毛な応酬を想像して陰鬱な気持ちでいた。
耳をだらりと垂らしてこれでもかと不愉快と落胆の色を滲ませていた吾輩に一瞥をくれたにも関わらず、馬宿店主は吾輩のことを見て見ぬ振りして、群れの先頭の方へと小走りに去っていった。
吾輩は低く嘆息した後、憔悴しきった体に手づから鞭打ち、前を行く馬に続いて厩舎を後にした。
吾輩やその他有象無象の馬達に取って唯一の休息所兼、オアシスとして機能しているこの馬宿の厩舎を、後ろ髪引かれる思いで後にした吾輩達(後ろ髪引かれる思いでいたのは吾輩だけであったが)は、広大であるだけでとりたてて特筆すべき点のないサイトン西高原を北へ突っ切って、サイトン馬宿に5分ほどかけて到着した。
サイトン馬宿は、宿場町サイトンの周縁から吹き出物のように飛び出す形でぽつねんと居を構えていた。
いつだったか、梅干しのようなしわくちゃ顔の馬宿店主のお爺さんが、自分がちょうど成人したての頃に先代からこの馬宿を引き継いだのだと話すのを耳にしたことがあった。
正十角形になるように配置された木製の柱には、老朽化して所々齧られたようになった腐食の跡があった。
春の優しい陽気な風にほんのちょっぴり撫でられるだけでポキンと折れてしまいそうな長三角形の旗が、正十角形のそれぞれの頂点にあたる柱のてっぺんに風前の灯といった風情の心許なさをもって立ち並んでいた。
十個の頂点から中央へと収束していく形で、こんもりとした丘のようになって、砂を被った布製のカラフルな屋根が貼られていた。
毎日この馬宿に訪れてそれらの風化の跡を見るたびに吾輩は、無常に流れ行く歳月を感じ、なんともしんみりとした感傷的な気持ちにさせられた。
だがしかし、そんなセンチメンタルな余韻に浸る間もなく、吾輩は未知なる冒険に心躍らせる若者達の相手に四苦八苦させられるのだった。
今日も今日とて、馬宿についた途端血気盛んな若者達は、馬宿店主や店員の静止を振り切って、吾輩達を羨望の眼差しで取り囲んだ。
砂糖に群がる蟻の如き彼らの勢いをなんとか抑え込むことに成功した馬宿店主は、他の馬宿店員達に二言三言指示を飛ばすと、吾輩達を広大無辺に生い茂る野原に一直線にかつ等間隔に配置していった。
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