第三話

 吾輩が止めるのも聞かず、モトヤはまたぞろバイトに出かけてしまった。部屋が静まりかえる。

 穏やかな昼下がり。いつもなら寝る時間なのだが、目の前で死にかけになっていた姿がちらついては安眠などできようはずがない。

 外に出て、吾輩もコンビニに向かってみた。ガラス戸越しに店内を眺めてみると、ちょうど商品の陳列をしているところであった。覇気の無い顔。段ボール箱を抱えてよろめいている。前に来たときは、キビキビと動き回っておったのに。やはりバイトをしても体調は良くならぬらしい。

 後ろから足音がしたので振り返ってみれば、痩せた背の高い男が吾輩を見下ろしていた。ドウブである。不気味な冷気を発散させており、見ているだけで息苦しくなる。

 ドウブは吾輩とモトヤを見比べると、しゃがみ込んで吾輩の顔を覗き込んできた。

「ご主人が心配か? 健気だな、動物の直感で察しているのか。だが、動物故に何もできない。もしも邪魔立てされそうになれば、その時は手早く喰らい尽くすまでだ。モトヤは稀に見る一品だから、可能な限り味わって食したいがね」

 吾輩の頭に手を伸ばすと、力を入れて掴んできた。叫び声を上げようとしても、喉が詰まる。ドウブは吾輩の困惑を見て愉快そうに眼を細めると、立ち上がった。手が離れ、感覚が元に戻っていく。

 ドウブがコンビニに入り、モトヤが近付く。

「今日もバイトか、精が出るようでなによりだ」

「おう、いらっしゃい。昨日は悪かったな、欲しいのがあったら、案内するぜ」

「いや、レポート用にコピーを取りに来ただけだ、構わなくて良い。内容について相談したい部分があるのだが、近いうちに家に立ち寄らせて貰って構わないだろうか」

「おう、いいぜ。いつでも」

 ドウブが巧妙に、モトヤと会う約束を取り付けている。またぞろ血を吸うつもりであろう。止めねばならぬ。

 ドウブが振り向く。愚弄に満ちた眼であった。

 休憩時間を待ってコンビニの裏手に回り込んでみると、粗末なベンチにモトヤが座っていた。背もたれに体重を預けきり、呆けた顔で空を眺めている。ニャーと呼びかけてみると、顔がこちらを向いた。弱々しい笑みで、目の下にどす黒いクマが見えるのが痛々しい。

「ユウ、来てたのか。おいで」

 抱え上げられるが、指先はまだ冷えていて力も弱く、取り落とされそうで怖くなる。初めて出会ったあの日の、暖かで力強い手を思い出して物悲しくなる。

 吾輩はこれまで身一つで生きてきた猫である。飼主がおらずとも生きてゆくには困らぬ。

 しかし。

 旨い飯に、温かい寝床。なにより、身近に愉快な者がいる生活は、それまでよりも間違いなく「楽しい」と断言できよう。

 それがかようなまでに早々と失われるというのは、無情である。可能ならば、永くこの生活を続けたい。失うには、モトヤはあまりに貴重な男である。

 重そうな身を引きずってモトヤが去って行った後、吾輩はあの吸血鬼の魔の手からどうにかして、モトヤを救ってやれないかと考えた。

 厄介なのは、モトヤに言葉が通じぬことである。あれだけ吾輩にベタベタとまとわりついておきながら、ドウブの方が吾輩の意図をくみ取っているのでは、モトヤの知能はあてにできぬ。どうにかして吾輩の力でドウブを追い払わねばならぬ。

 しかし、真面まともに噛みついては相手にもされぬ。下手をすれば、精気を抜かれ尽くして吾輩が死んでしまう。

 眠気を押して歩き回りながら、知恵をこねくり回していると腹が減った。ちょうど、近くに野良時代の行きつけの店があるので寄ってみる。

 ラーメン屋である。吾輩が姿を見せると「久しぶりだなあ」と言って、油臭い親父が暖簾をくぐって出てきた。手には豚肉の欠片。チャーシューを作る際に出る端切れだそうだ。煮込む前の豚肉は硬いので、何度も咀嚼しながら店内を覗く。相変わらず、若者に人気の店だ。野菜や薬味の量を食い手が注文できるので、皆こぞって量を増やしていく。これで店が潰れぬと言うのだから、この店主もある意味、化物の類いである。

 店から出てきた若い女が、吾輩に気付き「猫ちゃーん」と馴れ馴れしい声で近付いてくる。これも野良時代からよくあることである。見ず知らずの人間に触られるのは気に食わないが、豚肉のお礼として店主の顔を立ててやるのが常である。今日も「一働きしてやろう」と決めたのだが、女から胸の悪くなる匂いが漂ってきたので、堪らず逃げ出してしまった。

 ここの客は、このような不愉快な匂いをさせている者が多い。店からやんわり漂ってくる分には、修行の結果耐えられるようになったが、間近に来られるのは御免被りたい。女が可愛らしい声を出して追ってくるが、全速力で振り切ってやった。

 腹も膨れたので、家に戻って丸くなる。あの匂いの正体は、一体何なのか。まどろみの中で、思いを巡らせていると、不意に良い考えが湧いて出た。

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