⑧名前 ~蒼生side~

「おかえり、蒼生」

風呂の中でも、侑李くんの声を、姿を思い返す。

「可愛かった、侑李くん」

思わず呟いて、俺は両頬をばしっとはたく。


「朱夏の弟」

気付いたら、そう言われることが増えてた。

人見知りで俯きがちな俺と、明るくて友達が多い兄貴。いつだっておれは兄貴の「おまけ」。自分でもそう思ってた。

変わったきっかけは、兄貴の友達だった。

俺の人見知りに気を遣って、家に人を連れてくることがなかった兄貴が、唯一連れてきた友達の「その人」は、俺のことを一度も「朱夏の弟」とは呼ばなかった。


たまたま玄関で鉢合わせたときに、めんどくさそうに、兄貴が俺を「その人」に紹介した。

「あ~、これ、弟の…」

「『これ』とか言うな、弟に向かって」

「その人」は兄貴の言葉を遮った。きっぱりと言いきるその声に、俺はビクっとなった。それは兄貴も同じだったみたいだ。

「その人」は、俺の方を向いてにっこりした。

「なぁ、名前は?」

優しい声で聞かれ、俺はおどおどしながらも答えた。

「う、あ、蒼生、です」

「噛むなよ、自分の名前」

兄貴が呆れたように、笑っている。

(恥ずかし…)

顔が熱くなった。きっと真っ赤だったと思う。でも「その人」は気にした様子もなく、俺の名前を繰り返した。

「『あおい』か」

「おい、挨拶」

兄貴に促され、慌てて頭を下げる。

「あ、こ、こんにちは…」

「こんにちは。あ、俺『ゆうり』。小鳥遊侑李」

やっぱり優しい声だった。

「たかなし、ゆうり、くん?」

「『くん』?お前な~…」

「朱夏、さっきからうるさい」

何か言いかけた兄貴を「その人」、侑李くんが睨んで制止する。

(兄貴が怒られてる…)

俺には笑うのに、兄貴には厳しい。

「よろしくな、あおい」

「よ、よろしく…ゆうり、くん」

それからも時々、侑李くんは家に遊びに来た。

優しくて、物知りで、時々怖くて(とくに兄貴に)、やっぱり優しい侑李くん。

「蒼生も一緒にどう?」

「蒼生はどうしたい?」

侑李くんに名前を呼ばれるたびに、俺の中で何かが変わっていくみたいだった。視界が色付くっていうか、雑音がクリアになるっていうか、大袈裟じゃなく、そんな感じ。

「お前、下ばっか見てんの、やめたんだな。あんまり、噛まなくなったし…なんか、変わったな」

兄貴に言われて気付いた。

「そっちの方が良いと思う」

俺が変われたとしたら、それは侑李くんのおかげ。


「蒼生~、のぼせんなよ~?」

風呂の外から侑李くんの声がする。思いの外、長風呂になってたみたいだ。

(「のぼせんなよ」って…)

「おかん…ふふ」

顔が緩む。そんなところも可愛いと思ってしまう。

「今出る~」

(…顔見たい)

俺は、急いで風呂を出た。






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