画脂鏤氷

三鹿ショート

画脂鏤氷

 彼女は誰よりも早く練習を始め、誰よりも遅くまで練習を続けている。

 一日も休むことなく、その行為を続けている彼女のことを、私は尊敬していた。

 私がそれを伝えたところ、彼女は苦笑しながら、

「私は、頭が良いわけではありません。ゆえに、身体能力を向上させ、大会で良い結果を残すことが出来るように努力を続けることくらいしか、出来ないのです」

 彼女は自身を卑下しているようだが、立派な人間である。

 私などは突出した能力が何一つ無いために、何をしたところで無駄だと諦めている。

 だが、彼女は自分の取柄というものを見出し、それをより良いものへとするべく、努力を続けている。

 そのような彼女を見ていると、自分が愚かな存在であるということを認識しなければならなくなってしまうのだが、だからといって、彼女を嫌悪するようなことはない。

 そのようなことをすれば、自分が今よりも惨めな存在と化してしまうことを、理解していたからだ。


***


 金銭を支払って自宅に呼んだ女性が彼女であるとは、想像もしていなかった。

 久方ぶりの思わぬ再会に、当然ながら私も彼女も驚きを隠すことができなかった。

 私がそれまで抱いていた欲望は鳴りをひそめ、私は彼女との会話に夢中になった。

 話を聞いたところ、結局彼女は、どれだけ努力をしたとしても表彰台に立つことはできなかったらしい。

 ゆえに、歯車の一つして働くことにしたのだが、生来の能力も影響してか、常に叱責される日々だった。

 そのような言葉をぶっつけられることは当然のことだと考えていたものの、彼女は自分が思っていたよりも精神的に脆かったらしく、ある日、部屋から出ることができなくなってしまったらしい。

 そのまま会社の人間に会うことなく辞職し、しばらくは引きこもっていたのだが、生活費が無くなっていくことに不安を感じたために、金銭を借りることにした。

 しかし、借りる相手を間違ってしまった。

 友人だと信じていた相手は、彼女が金銭を返済することができないということを知ると、それまでの態度を一変させ、彼女に身体を使って稼ぐことを求めた。

 そのような行為になど及びたくは無いと思っていたが、ただ相手に快楽を与えるという仕事は、彼女にとってはそれほど頭を使う必要が無かったために、想像していた以上に容易に金銭を得ることができるようになった。

 自分のような何の能力も無い人間でも役に立つということを知ったために、今の彼女は、無理矢理ではなく、自分の意志で働いているらしい。

 彼女の話を聞いた私には、彼女を否定するつもりはなかった。

 それどころか、生き甲斐を見つけることができたことが、自分のことのように嬉しかったのである。

 挫折したという話を聞いたときはどのような言葉を返すべきかと悩んだものだが、今の彼女は、生き生きしているように見える。

 それならば、かつてのように、私は応援するべきだろう。

 だが、彼女と肉体的な関係を求めているわけではなかったために、私は金銭だけを渡すと、彼女に帰ってもらった。

 それからも私は、彼女を指名しては、会話をするだけという時間を過ごした。

 この時間は、彼女にとっても息抜きであるらしく、私もまた役に立って良かったと思った。


***


 何者かが、彼女に対して恨みを抱いているのだろうか。

 不慮の事故によって、彼女は片足と片腕を失い、顔面にも大きな傷を負った。

 そのために、これまでのように働くことができなくなってしまい、再び失意の底に沈んだ。

 彼女が生き残ったことについては、私にとっては嬉しいことだったが、本人が同じ気持ちであるということもないだろう。

 それでも、私は毎日のように病院を訪れては、彼女に声をかけ続けた。

 彼女は何の表情も浮かべることはなかったが、私に退室を求めることはなかったために、嫌われているというわけではないのだろう。

 しかし、私は寂しさを感じていた。


***


 彼女が病室から飛び降り、その生命活動に終焉を迎えたのは、退院する前日のことだった。

 遺書が無かったために、彼女の心情については推測するしかないのだが、おそらく彼女は、病院を出た後の生活を思い描くことができなかったのだろう。

 生きていく上で唯一の武器だった肉体を失ってしまったために、これからどのように生きていくべきか、考えることができなかったのかもしれない。

 ゆえに、彼女はこの世界に別れを告げたのだろう。

 私は、己の無力さを嘆いた。

 沈んだ彼女を引き上げることもできなかったことを思えば、これまでの行為は何だったというのだろうか。

 其処で、私は自分が彼女に伝えるべき言葉を伝えていなかったことに気が付いた。

 退院後は、私が生活を支えると言えば、彼女は生き続けたのではないだろうか。

 今さらになってそのことに気が付いたということは、もしかすると私は、心の何処かでそのような生活をすることに対して、前向きではなかったのかもしれない。

 自分一人で生きていくだけで精一杯だったことを思えば、それは当然のことなのだろうが、それでも彼女の生命を救うことができた唯一の方法だったのではないか。

 動くことが無くなった彼女に向かって、私は謝罪の言葉を吐いたが、やはり私の行為は、何の意味も無かった。

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画脂鏤氷 三鹿ショート @mijikashort

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