揺れる➀


 グレーシアの誕生から三ヶ月。ルカも既に十歳となり、収穫祭に使う聖水の仕事をもらっていた。収穫祭が近くなったので、ルディとルタはその収穫祭で使う榊をいただきに、ときわの森へと入っていった。ルカはまだ森へ入れてもらえない。たくさん剣術の練習をしても、十歳になっても、留守番だった。


 ディアトーラの年中行事や領主の役目の都合で、学校を早退することが多いルカは、宿題も友達よりも多くなる。だから、留守番をしながら、鉛筆を回して計算をしたり、書き取りをしたり、眠っている妹のグレーシアを覗き込んだりしているのだ。


 そして、ルカに与えられている任務は、子守りと宿題だった。ルカはグレーシアの寝顔を覗き込んでは、宿題に精を出す。宿題をちゃんと終わらせておかないと、母のルタが無意識に怖い顔をするのだ。ただ、宿題を終わらせることが出来ていなくても、父のルディがルカを庇ってくれて、なぜかルカに代わり怒られる。

「だって、早退した後の宿題ってすごく多いんだよ。教えてもらってない課題があることもあるし……」

 ルディがルカの代わりに言い訳をするからだ。


 だけど、不思議とルタの表情が柔らかくなり、分からないことを教えてくれるようになるから、ルカはやはり父のルディが大好きである。

 そんな父にグレーシアは似ている。髪の色も、瞳の色も。

 籠の中のグレーシアはまだほとんど寝たままで、ときどき寝返りをうとうとして、体をよじり、やっぱり仰向けに戻るを繰り返している。まだうつ伏せに成功したことはない。同じことばかりして飽きないのかな、とルカは思うが、小さなグレーシアはずっと同じが好きのようだ。


 だけど、生まれたすぐの頃よりも、ずっとはっきりとした顔立ちになってきている。そして、その姿に母ルタの面影を見つけてしまう。

 ルカを見つめているその丸い目とふわふわの癖毛は、母のルタそっくりだ。


 シアそっくりの目鼻立ちで、母はルカに宿題を教えてくれる。領主夫人なんて辞めて、学校の先生になれば良いのに、と思うくらい、分かりやすく教えてくれるのだ。その理由は、大昔にリディアス王の教育係も勤めたという母の過去にあるということを、こっそり父のルディが得意そうに教えてくれる。


 友達が母親の年齢を言い合っていると、母の年齢が不思議な時があるけれど。ルタに関してのことを誰かから教えられるとルカはいつも思う。


 やっぱりすごいや、と。やっぱり魔女だったんだ、と。どこかおとぎ話のように捉えながら、誇らしかったり、口を噤んだりする。


 だから、祖母のセシルよりも何千年も前から生きている母が不思議であっても、その母が人間としてはセシルよりも若いということも、ぜんぶ含めてルカは母のことが大好きだった。


 グレーシアが動いたように思え、また籠を覗きこむと、丸い瞳が当たり前のようにルカを見ていた。機嫌は良さそうで、ほんの少し唇を突き出しているグレーシアがじっとルカを見つめ続ける。

 だけど、グレーシアを見ていると、どうしても考えてしまうのだ。


「シアは、なんで、赤毛じゃないの?」

 母さまは魔女だった頃、紫色の髪だったから……シアも大きくなるにつれ、変わるのかもしれない。

「お」

 話しかけられたことだけ分かったのか、ちゃんと答えているのかは、ルカには分からない。ただ、その口から真実が語られていたのだとしても、ルカに理解できないことだけが、救いのような気にもなる。


「お話、じょうずね」

 両親がいる時はいつも「なんて言ったの?」と尋ねるルカだが、今はその言葉を真似てみる。ルタは「なんでしょうね。あそぼう、かしらね」と答える。ルディは「ルカのことが大好きって言ってるんだよ」と答える。その父親のルディよりも僅かに淡い蒼をもつ妹。ルカには全く似ていない妹。


 赤毛じゃなくても、可愛くないわけではない。別にシアの髪の色が何色でも、本当は気にならない。ルカはグレーシアのことをちっちゃくて可愛い妹だと思っている。

「シアは、お祖父さまの色の目にも見えるよね……」

 今度は、手を伸ばして、ルカに答える。

「あ、あ」

 ただ、どうしてだろうと思うだけで。


「うん、なぁに?」

 その小さな手がルカの人差し指を掴む。小さな手とは思えないくらいの力で引っ張られたルカは「あくしゅ」と言ってその手を軽く上下に振る。その振動が面白かったグレーシアが、「きゃきゃ」と笑いながら、足をばたつかせて、布団を蹴飛ばす。そして、蹴とばされた布団をお腹に戻す尻から、また蹴とばした。


「遊ぶの? でも、布団は掛けとかなくちゃ。母さまがいつも『お腹は大事』って言ってるよ。うーんとね、いないいない、する?」

 覗き込んだルカの顔を見たグレーシアがへにゃぁと笑った。グレーシアが笑うと、ルカは何だか嬉しくなる。もっと笑ってもらおうと思う。もう一つの任務である子守りを思い出したルカが、両手で顔を隠すと、「ばぁ」と顔を出した。グレーシアがキャキャと喜ぶ。


「もう一回?」

 うんとは言わないが、何かを期待するように、じっとルカを見つめてくるので、ルカはもう一度「いないいない、ばぁ」と顔を出す。

 同じことを何度やっても喜ぶ。それが面白く、つまらないと思ったことはない。それに、時々「ハズレ」の顔もする。そんな時はもっと頑張らなくちゃと手を変える。

「シア、ばぁ」

 籠を覗く角度を変えてシアを覗き込んだ何度目か、シアの顔が真っ赤になっていた。

「あ、ウンチだ」

 そう言うと、ルカはセシルを呼びに扉の外へ出た。


 グレーシアの大きな泣き声が部屋中に響いた。


 ☆


 森の中はやはり静かだった。空高く聳えるその大樹でさえ、息を潜めているように、空っぽの葉擦れの音を立てているようだ。ルディとルタのふたりはその大樹を見上げる。ルディの手には、祈りの後に切り落とされた一振りの枝がある。森の女神のリリアは息を潜めたまま、ただそこにあるだけの存在のように、空に似た瞳に虚ろを映しているのかもしれない。


 期待なんてしていない。必要以上に求めれば、気に障れば、いつでも殺してやる。

 虚ろな瞳を映す空の色は、そう言っているのかもしれない。


「静かだね」

「えぇ」

 魔獣の気配はいつも通り。積極的に襲いかかろうとはしないが、平和とも言えない。

「やっぱり、まだお怒りになってるの?」

 本来ならば、ルディの遠い先祖とも言えるリリアだ。しかし、ルディも、その父アノールも彼女の存在を確認すらしたことがない。だから、ルディはルタに尋ねたのだ。

「怒りも悲しみも、慈しみも、彼女の意志すら感じられませんわ。ですが、揺らめいて……」


 揺らめいている。まるで、ラルーがルタになった頃のような、不安定で軸が定まらなくて、自分でもどうしようもないような。

 絶望の向こうにある何かを、その手に掴もうとしているような。

 しかし、ルタにもその声は聞こえない。

「不安……という言葉が一番近いのかもしれません」

「不安……かぁ……」

 その言葉を復唱したルディが、ルカを思う。


 ルカのあの不安は、どこが出発なのか。


 学校や友達のことをカズやフィグ、マリエラに尋ねてみたが、子どもの秘密は意外と口が硬い。無防備にポロリと出てくることもあるが、それは今の状態であり、『何が』きっかけだったのかは、彼ら自身分かっていないこともある。だから、大人の方が探りやすいし、後の影響もこちらで対処しやすい。

 幼ければ幼いほど、こちらを吸収してしまう彼らは、信頼の名の下にコントロールしやすいが、脆く危ない。


 なんと言っても、どこまでが事実で、どこまでが空想なのかすら、本人達ですら気付いていないのだから。それぞれがそれぞれの真実を信じて疑わないのだから。

 そして、彼らは頼れるものを無条件に信じ込む習性を持っている反面、認めたくないことを、認められないこともある。

 だから、自分で決める前に、その空想を真実にしてはいけない。


 分かっていることは、ただ、ルカの出生に関わることだろうということ。

 しかし、どこに不安を覚えて、どこで躓き動けなくなるのか。

 それが分からない。


 シアと自分の違いからだったのか、誰かに指摘されたのか。ただ単に領主の家に生まれたことなのか。魔女の子と言われることなのか。はたまた、森で拾われた子であるということなのか。生みの親についてのことなのか。

 ルカは優しいから、大人の物差しに合わせてしまう危険があると、ルディには思えたのだ。

 だから、ルカが尋ねてくることを待ちたい。そして、何も変わらないことを伝えたい。


「ルカのことですか?」

 同じように大樹を見上げていたルタが、ルディの考えを察する。

「同じような気がするなって思って」

 リリアがどこに不安を覚えているのか。リリアの声を聞かなければ、分からない。きっと、リリアにも彼女の真実と空想があるのだ。

「でも、不安であるうちは、まだ定まっていないと言うことでもありますわね」

「そうだね」

 リリアの場合は特に、こちらに危害が及ばないように定まって欲しい。今さらこの世界をリディアの思う世界に変えられては、ワカバの決断が確実に無意味になってしまう。それはルディもルタも同じ想いだった。


「寄り添わなければ、いけないのでしょうね」


 倒れないように、そっと。添え木のように、風に吹かれ、折れそうな茎が定まるまで。

 いつか、その茎が将来に咲くだろう花を支えられるようになるまで。


「帰りましょう」

「そうだね。ルカとシアが待ってるね」

 静かに微笑んだ二人は、大樹を後にした。

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