誕生③
最初の三日は高熱が出て魘される。
一週間経って、やっとグレーシアのお世話ができそう、と思えるくらいになった。十日経ってやっと立ち上がっても良いと言われた。
二週間経って、やっと籠から抱き上げても良い、と言われ、明日からはやっと部屋の中ことは自分でしても良いと言われた。
さらには日中の授乳は乳母を探してという状態。その点においてセシルは「回復されたら出るようになりますから、ご心配なく」と励ましてくれる。ここ五日ほどで、やっとまともな食事も少しずつ摂れるようになってきたルタは、座っていることですら、疲れてしまう状態だった。
そして、お腹を空かせて、夜中に泣き出すグレーシアを抱き上げて連れてきてくれるのは、ルディであった。ルタは火が付いたように泣いているグレーシアを受け取り、出ているのかどうか怪しいお乳を吸わせる。
動きたいのに、何も出来ない。それは初めての経験だった。
ルタだから生み出せた。ラルーならばこんなに回復できないことはなかった。こんなにも動けなくなることもなかった。
それなのに、ラルーと天秤にかけても、不思議なくらいにルタに傾くのだ。
だから、一日でも早く回復して、彼らの負担を減らさなければが、ルタの目下の目標であり、一日でも早く夫人としてルディを支え、助けなければならない、という思いに繋がっていく。
あの地域は、不毛である。だから、引き直しは条件次第では無理な相談ではないのだ。引き直さなければならない、決定的な、何か。両国にとって必要な何かがあれば……。
そう思い、考えを止めた。今は考えない。ルディもそんなこと望んでいないのだろうし。
籠の中には、ルディによく似た女の子がいる。
少し目鼻がはっきりしてきたようにも思えるし、なんとなく、ずっと一緒にいるルタという存在を認識しているようにも思えるようになった。遠くから声をかければ、瞳を泳がせるようにして、何かを探す。「ここよ」と声をかける。手を伸ばす。
今朝までは傍にいたセシルやルディが抱き上げて連れてきてくれていた。
今夜のお世話からルディと交代でしても良いだろうということになっている。
うっすら開いた瞳に映る光は蒼で、赤みがかった金髪。
その容姿にルタはほっと息を吐く。しかし、すぐに悲しそうに視線を落とす。
どうして、その髪はルタに似てうねってしまったのだろう……。
産毛のように柔らかいのに、その髪はルタのものと同じく、癖毛である。
それなのに、ルディはそれを「くるくるしていて可愛い」と言う。それでも、ルタに代わり、グレーシアを抱っこしてくれているセシルに、ぽつんと尋ねてしまうこともある。
「どうして、うねっているのでしょう……」
あんまりにもルタがそれを残念がるから、セシルが救いの言葉を一つルタにくれた。
「ルタ様、赤ん坊の毛は柔らかく癖毛のことが多いのですよ。だから、大きくなれば真っ直ぐになるかもしれません」
しかし、どうなのだろう。
ルディの髪は産毛のように薄かったが、生まれた頃から真っ直ぐな髪質だったのだ。一度もうねったことはない。ルタは、その赤ん坊の寝顔をじっと見つめる。ルディが生まれた頃よりもしっかりした髪が生えている。ルタは自身の赤ん坊時の状態を知らない。だから、もしかしたら、ルタもしっかりと髪が生えていたのかもしれない。そう思うと、やはり、不満が募る。
ルタは、自分自身が嫌いだ。
ルタの心はずっと不安定だった。揺れに揺れて、それでも求めて。
だけど、ルディとセシルがグレーシアをかわいがる姿を見ていると、とても安心する。
ルタは隣で眠っているルディを起こさないようにそっと籠に視線を向けて、呟く。
「シアは、ちゃんと今を生きる人間ですわよね……」
シアと呼ばれた赤ん坊、グレーシアはルタの声などまったく気にすることなくすやすや眠っている。気にする必要なんてない、まるでそうルタに諭しているかのように。
だから、諦めて目を瞑ったその時、扉がゆっくりと窺うように開いた。隙間から覗くあどけない顔は、ルカだった。
「あら、ルカどうしましたの? こんな夜中に」
「えっと、……シア見に来たの」
ルカが言う。そして、静かな部屋の様子に、言葉を続けた。
「寝てるなら……いいや」
そう言って、そのまま帰ろうとするルカをルタは止めた。
「大丈夫ですわよ。いらっしゃい」
体を起こしたルタがルカに微笑むと、ルカが肯いた。
ルカは足音を立てないようにそっとルタに近づき、今度はルタを気遣った。
「母さまは、もう元気?」
「えぇ。元気ですわよ」
「よかった」
ルカが眠い目をこすりにっこり笑うと、ルタがそのルカの肩を引き寄せた。
「ルカにも心配をかけましたね。お祖母さまから聞いていますわ。ルカが家のことをたくさん手伝ってくれていると。ありがとう、ルカ」
月明かりがルカの瞳に映り込むと、その黒い瞳がきれいに輝く。しかし、すぐにその輝きが曇り、頭を大きく振った。
「ううん」
ルカはルディと違う。
ルタは、だから彼を抱き寄せる。
「母さまは、ルカが大好きですわ」
ルカは自分を偽ることがある。それは、どこかルタに似ている。だから、ルタは、ルディのようにルカに接するようにしている。『大好き』を伝え続けないと、伝えられ続けないと、彼はどこか焦りを覚え、暗闇に沈もうとする。それを繰り返し、ルカ自身の持つ笑顔が、偽りになるような。それは少しルタとは違う。ルタは嬉しくない時に笑えないから。しかし、ルカのそれは、グレーシアが生まれてから、顕著に見えるのだ。
「だから、今日はみんなで一緒に寝ませんか?」
本来なら十歳までは同じ部屋のはずだった。しかし、シアが生まれて、少し早まったのだ。
「でも、……父さまと約束したから」
一人で眠る約束のことを、ルカは言っている。
「大丈夫。父さまも許してくださいますわ」
ルタはルカを見つめ、微笑んだ。
「……でも、母さまも体調が優れないのでしょう?」
ルディがルカを叱らないことをルタは知っているし、ルカもそれくらいで叱られるとは思っていないだろうことも、知っている。ルカの心の中には他の何かがあるのだ。
「いいえ、すっかり良くなっています」
それでも、ルカは肯かない。
『ラルー』ではないルタではその心の声は聞こえないけれど。
だけど、ルタは『ラルー』だった頃よりもルカのことを考えられる気がするのも確かだった。
「もし、父さまが頑張っているルカを叱ったら、わたくしがルディを叱りますから、心配いりませんわ」
すると、今度はルカがルディを心配する。
「叱らないであげてね。父さまは、母さまが大好きだからとても傷つくよ」
ルタはそんなルカに微笑みかけた。ルカは優しい。だから、少し心苦しくなる。そんな気持ちを抑え、ルタは明るく努めて、語りかける。
「じゃあ、母さまはルカが大好きだから、今夜ルカと一緒に眠むれないと、とても傷つきますわ。ね、ルカ」
あくびをこらえられなくなったルカが、それでも欠伸をかみ殺して、瞳を潤ませる。ルタはふと過去を思い出し、優しい気持ちになる。
「……」
「眠いのでしょう?」
いやいやが酷かったあの時。ルカはもうあんなに小さくないけれど。同じ『いや』でも、複雑な思いを内に秘めるようになってきているけれど。
確実にルカの世界を創り始めているのだけれど。
あの時と変わらない。
「大丈夫よ、ずっと一緒ですから」
ルカが望む限り、ずっと。
ルディとルタの間に挟まれて眠るルカの髪を、ルタがそっと指で梳かして、流す。ルカの太陽のように暖かい色の髪が、さらさらとルタの指を流れていく。ルカの不安はいったいどこからやってくるのだろう。
温かなふたりに挟まれたルカの寝息が深まった頃、ルディがルタに話しかけた。
「ルカ、何かあったのかな?」
「シアが生まれたことも関係があるのかもしれませんけれど……」
ふたりの視線の先にはあどけない息子の寝顔があった。ルディの視線にも、もどかしさが含まれる。
「いろいろ悩む年頃になってきているのは確かかな……」
ルディが自身の過去を思い出しながら、言葉をこぼすと、グレーシアが「ふにゃあ」と声を上げた。
「次、ルタの番」
そう言うが早いか、急いで布団にくるまるルディを見てから、ルタはルカをもう一度眺めた。
こんなに幼いのに、……。
しかし、つまらないことだとも愚かだとも、思わなかった。
「ルカは考えすぎるところがありますものね」
誰に伝えるともなく言葉をこぼしたルタは、ゆっくりと立ち上がり、グレーシアの泣く籠を覗き込んだ。
「シアは泣くのが仕事なのかもしれませんけど、みんなを寝かせてあげてくださいね」
掬い上げるようにして、ルタの腕の中に納まったグレーシアが、ほんの一瞬、泣き止んで、陰りのない瞳でルタを真っ直ぐと見つめた。
「おっぱいの後は、少しお散歩に出掛けましょうね」
「ルタ、無理しちゃダメだよ」
続いたルディの声に、「えぇ、館内を少しだけにします」と答え、ルタはグレーシアに微笑みかけた。
やっと自分の手で胸に納めることの出来たそのもう一人の我が子は、ルタの声を聞きながら、ただ『自分の存在』を訴え続けていた。
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