犬も食わない⑥


 夜、領主館で明かりの漏れている窓は、ルディとルタの部屋のみだった。夜更かしをあまりしないふたりには、珍しい。

 その窓に影が二つ。並んでいる。


 一人はルディ。もう一人は、もちろんルタであるのだが、その影からもピリッとした空気を感じられるほどだった。抑えられた声なのに、地獄の底から聞こえてくる、そんな風にさえ思える。そして、もう一つの声。それは、か細く短く、「はい」と伝えられるまるで寒空に立たされ今にも凍え死にそうな声だった。

 ルタが怒っているのだ。そして、そのルタの怒りにルディが怯えているところだった。

 ルタを怒らせると、怖い。それなのにルディは何度も同じ轍を踏む。


「ルディ、あなたには言っておかなければならないことがあります」

 大伯母様アリサとの歓談を楽しんで、たくさん褒められたルカがぐっすり眠った後、ルタはルディに詰め寄っていた。こんなことをされては、護れる者も護れなくなる。ルタはそう思ったのだ。


「まず、一つ目。ルカを出しにするのは止めていただけませんか? なにが、ルカ一人のお使いだと心配だからですか? そもそもお使いなど頼んでもいませんし、あの距離を一人で行かせるわけがないでしょう?」

「はい、仰るとおりです……申し訳ありません」

 本日何度目かの謝罪である。ルディは、ただただ頭を深く垂れてしまう。蛇に睨まれた蛙がいるとすれば、今のルディがそれだった。


「二つ目。お客様がいるあの場で謝られても困ります。謝罪を受け入れるしかないではないですか。まして、アリサの前ですよ」

 ルディにとっては、伯母という気心の知れた親戚なのかもしれないが、ルタにとっては政敵になってもおかしくない存在でしかない。

「はい。……重々分かっております」


「三つ目。事あるごとに、ロッテの店でカカオット。いい加減、芸がないことにお気づきになられないのですか?」

「でも、ルタもカカオット気に入っているでしょう? それに」

「……」

 無言で睨むルタにルディが怯んで、素直に頭を下げる。ルディに反論の余地はないのだ。

「はい、すみません。無駄遣いはもうしません」


「四つ目」

「えっ、まだあるの?」

 その怯えたルディの表情に、ルタは喉元にあったはずの言葉を呑みこんだ。これ以上言っては、ルディに止めを打ってしまう、そう思ったのだ。別に怖がらせようと思っていたわけではないし、あの時点で何も言わなかったアリサが、今さら何か言ってくるとも思えない。要するに可哀想に思えたのだ。


「頭は冷えましたか?」

 僅かな口調の変化にルディが気付き、ルタの様子を窺う。

「はい」

「タミルに正直に話してたことは、間違っておりませんでしょう?」

「……うん。変に嘘をつくよりずっと良い。タミルも別に表に立とうとはしないと思う。そういうの嫌いだから、家を出た人だし」


「でも、わたくしとこの子を心配してくださる気持ちは、ありがたく嬉しいのも確かではあります」

「……ごめんね。言い過ぎたと思ってる。大丈夫なのも分かってる……」

「いいえ、わたくしも大人気おとなげなかったと思います」

 口調こそ硬いが、ミルタスと話をして、すっきりしているルタは、そのまま言葉を続けた。


「カカオットも嬉しいです。それに、ロッテがディアトーラの牛乳を使って作って下さっているものですし、ミルタスもお土産を喜んでらっしゃってましたし」

「うん、確かソレルが好きなんだよね」

 ルディは言葉を選びながら、やはりルタの顔色を窺いながら答える。ルタは穏やかなように見える。

「ルカも久し振りの遠出に良い表情で帰ってきていましたし」


 ルカがふたりの前で作り笑いをするようになっていることを、ルタもルディも知っている。


「ルカね、ロッテにすごく褒められたんだ。なんてきちんとお話ができる子なんでしょうって。ルタのおかげだよ」

 それを聞いたルタが、嬉しそうにするので、ルディが続ける。

「それに、ほら牛乳瓶の形なんだよ。テオが喜びそう」

「そうですわね。それでは、明日テオにも差し上げましょう」

「ほんとだ、1個ずつ食べても余るしね」

 そこで、ルタがルディを一睨みした。


「あなたも食べる気だったのですか?」

「えっ、あ、えっと……いえ、僕の分はルタにあげようと思って……、えっと、ルタがいらないなら、ルカでも……」

 そして、クスリと笑われる。

「嘘ですわ。一緒に食べましょう」

 そこでやっとルタから怒りが感じられなくなり、いつもの柔らかな微笑みが浮かんだので、ルディはやっと胸を撫で下ろした。


 ……が、しかし、明朝、ルタが呑み込んだ言葉で、アリサに止めを刺されることとなるとは、その時は誰も知りようがなかった。


「見え見えの嘘をついた謝罪はちゃんと済ませたようですね。今回のことはアノールには黙っておきました。どうせ、あなたに甘いルタは何も言っていないのでしょうけど、今回あなたがここに残された理由をしっかり考えておきなさい」

 その言葉にルディは急に青ざめた。どうやら気付いたようだ。ルディに念を押さなかったアノールも悪い、とアリサは思っている。


「感謝なさいよ」

「申し訳ありませんっ。本当に、どうかお許しください。どうか、お願いします。全部、僕が悪いのです」

 深く頭を下げ続けるルディに浮かんでいた表情を思い出して、アリサがコロコロと笑った。彼の良いところはセシルに似て素直なところだ。


 おそらく、二、三日は思い悩むだろう。

 そして、ふと忘れる。いや、忘れると言うよりも、……アリサは思った。


 大丈夫だと信じ込ませる、に近い。前を向こうと思考を変えられる強さを、ルディは持っている。失敗を取り戻そうとする。

 そして、ふたりのアキレス腱は、『ふたり』であることで冷静さを欠くこと。

 しかし、あんな大きなお腹を抱えているくせに、彼女なら平気な顔で暴漢でも魔獣でも、簡単に仕留めてしまいそうに思えるだから、今回に限っても大きく咎められるかと問われれば、アリサは、「いいえ」としか答えられないし、答えないだろう。


 そのふたりが同じ方向を向いている限り、そうそう簡単にそのアキレス腱を狙えないことも確か。下手に狙えば、何が襲いかかってくるか、分からない。


 それに、あの春分祭を乗り切り、その上でワインスレー諸国に『魔女の夫人』を認めさせたこのふたりの機嫌を損ねてはならない。それこそ、上手く使っていく方が得策。アリサは直感的にそう思っていた。

 アリサは、アリサを迎えたルタの開口一番を思い出す。


「主人がお出迎えできませんこと、お許しください。でも、ご安心くださいませ。わたくしは、主人などよりもずっと腕が立ちますので」


 その時にアリサは二人が喧嘩でもしたのだろうと思ったのだ。

 普段、ルディのことを決して見下ろさないルタが、そんな風に言うのだ。そう思うと、おかしかった。


「あなたたちは本当に見ていて飽きないわ。でも、甥っ子を追詰めて遊ぶ気はありません。顔を上げなさい」

「ほんとうに、申し訳ありませんでした」


 それでも顔を上げられない甥っ子を見てコロコロ笑うアリサは、このよく分からないふたりを自由に泳がし、観賞魚を愛でるような楽しみで、ふたりを観察し続けている。

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