犬も食わない⑤
扉を叩く音がしたので、アリサに退室を断ってから、ルタがその客人を迎えに行くと、カズの三女であるマナが立っていた。
「どうしましたの? ルカはまだ帰ってませんけれど」
「ううん、違うの。これ、ルディさまから」
そう言って、小さなメモがルタに渡された。
「お姉ちゃんがね、エドから預かったんだけど、お姉ちゃん忙しいんだって」
「あら、そうなの。マナはお使いが上手に出来ますね」
そうやって褒めると嬉しそうに目を細めた。
「うん。今日は一日お姉ちゃんのお人形もマナが使うのよ」
「それは良かったわね。マナ、お使いありがとうございました」
手を振り、マナの背中を見送った後に、ルタは大きく溜息をついた。
何がお使いですか?
お使いなんて頼んでいませんけれど。
ルタの脳裏に浮かんだ言葉はまずそれだった。そして、どんな顔して帰ってくるつもりなのだろう、とふつふつとした怒りを覚えた。
本来ならば気にするほどでもないその怒りは、ルディと共に過ごすようになり少しずつ増えている。普段は気にならないが、水に触れると痛みを思い出す指先の逆剥けのような、そんな怒りである。
ワカバとともに暮らしていた時には、感じたこともないそんなつまらない怒りである。
本当につまらない。一個人が動いた結果に不満を感じるだなんて。
人間とは愚かに出来ているものだわ。こんなことで心を乱すなんて。そう思わずにはいられない、そんな怒り。
そして、その怒りを鎮めるために、今度は大きく深呼吸をする。
もう一度文面を見る。
『ルカと一緒にお土産を買いにグラクオスまでお使いに行ってきます』
この文面の良いところを探そうと思ったのだ。
良いところ……。
思いつかなかった。
グラクオスまで行く必要もルカを連れて行く必要も、さらには、それをお使いにする理由も。
もう一度大きく深呼吸をする。
きっと酸素が足りないのだわ。
「どうされましたの?」
帰りの遅いルタを心配したミルタスの声が聞こえた。
「ごめんなさい」
ルタは慌てて取り繕った。
「なんでもありませんわ」
ミルタスは、そのルタの狼狽ぶりに、先ほどのアリサの言葉を思い出した。
あのルディが不在だなんてね。ルタの雰囲気から大きなことは起きたとは思わないけれど、……。
そこで微笑み「夫婦げんかでもしたのかもしれませんね」とお茶を啜り、ミルタスに続けた。
「私は少し休憩をしたいと思います。ルタと一緒にお喋りでもしてくると良いわ」
そんなやりとりを知らないルタが慌てて、ミルタスに謝る。
「ほんとうに申し訳ありません。アリサをお待たせしてはいけませんね。すぐに戻りますわ」
ミルタスにはいつも冷静なルタがその狼狽の中で『アリサ』と呼び捨てにすることもおかしくなった。
これもミルタスは知っている。大抵はルディのことでルタがからかわれた時に、ルタはアリサに対しての敬称を忘れる。本当に希なことだが、ごくごくたまに。
しかし、アリサが言った。
『ルタは私よりも二千年以上も前から生きています。さらに言えば、彼女は今の時の流れにはない過去に、この世界をすべて統治したことのある王の娘の一人です。現在の時の流れ上、私の方が彼女よりも地位のある立場かもしれませんが、本来ならば彼女の方が立場は上のはずでしょうね。トーラを前に考えれば、いつ時が変化してもおかしくない中の人間の権威や見栄など本当につまらないものですわね』
リディアスに残されている、誰も手にしないような埃を被った古文書にたった一文だけ記されているルタの存在。それをアリサは見つけた。
アリサが本気でルタを知ろうとして、それしか見つけられなかったのだから、きっと本当にそれしか残っていないのだろう。
しかし、「あなたはルディには本当に甘いですね」とアリサに笑われると、「そんなことありませんわ」と否定するそのルタの姿は、ミルタスが見ていても冷静さを欠いていると分かり、かわいいなとさえ思えるのだ。もしかしたら、そんな時だけ、自分よりも年若いルタを年齢相応に見ることが出来て、安心しているのかもしれない。
「大丈夫です。アリサ様は少し休憩なさるそうですから」
これはアリサがミルタスを思っての言葉だった。
アリサは厳しいが、自分の認めた者を決して見限ったりしない。見限るとすれば、それは元々の予定の中にそのように組み込まれていたのだ。
ここまでは使えるだろう者。
ミルタスはそれを恐れている。ルタはそれを恐れない。だから、アリサはルタを見限ることは決してないのだろう。だから、アリサに見限られたとしても、生きていくために必要な手段を身につけなければならない。だから、ルタの信頼を掴んでおきたい。エリツェリに殺されかけたルタが、その現在の元首であるミルタスを信頼している。その事実を作っておきたいのだ。そして、いつか、アリサとルタというその影に護られなくても、太陽の下で萎れない強さを持たなければならない。
「ご休憩されるのですか?」
ルタはきょとんとしながら僅かに小首を傾げ、続ける。
「そうですわね。アリサ様も長旅でお疲れですわね」
「ふふふ」
突然笑ったミルタスにルタがさらにきょとんとする。こうやってきょとんとされるのも、ルタが警戒していないからだ、ともアリサが教えてくれた。そして、そんな彼女とは素直に付き合いなさいと助言をくれる。
「私はルタ様が本当に羨ましいみたいです。私は主人に腹を立てるにも至りませんから」
その言葉に最初こそ怪訝な表情を浮かべたルタだったが、諦めたように微笑み、正直に話した。
「アリサ様が仰っていたのですね。だけど、わたくしはミルタス様が羨ましいです。ミルタス様はタミル様に腹を立てるようなことはないのでしょう?」
そう言われて、ミルタスは彼女の伴侶であるルディを思い浮かべて、少し納得してしまう。
「でも、腹を立てられることが、羨ましいのです」
ミルタスはやはり溜息が出そうな微笑みを浮かべ、彼女の夫を思い浮かべた。
ディアトーラ跡目のルディは、確かにちぐはぐに出来ている。元首代理としてでも、彼は、他国と肩を並べて話し合いの席に立っているし、まったく負けてもいない。どちらかと言えば相手側を納得させることが多い。アリサのお茶会では頼りなく語られるが、元首達が彼を警戒しながら付き合っているのは一目瞭然だった。
さらには理不尽に追い込まれて言い淀むミルタスを、自然に助ける余裕もある。しかし、彼の全貌を知るミルタスからすれば、その行動はおそらく助けているつもりもなく、今のエリツェリに恩を売るつもりすらなく、単なる『良い人』の発言なのだろうと思えるのだ。裏を返せば、ミルタス元首のエリツェリなど、本当に取るに足らない国と彼に認定されているだけなのだろうけれど。
夫であるタミルにミルタスがそんな彼を伝えると、それは自国にその危害が及ばないように牽制してるだけらしいけれど。
だけど、あんな風に真っ直ぐな元首になりたいと思えるのは確かなのだ。
『そのようにお考えになるのであれば、ディアトーラとしても付き合いを考えなければなりませんね』
魔女が悪い意味での話題になれば、忌み語として使われたなら、ルタを指していなくても、ディアトーラに関係なくても、酷く冷たい表情でそう言う。各国共に、口を噤む。
ディアトーラは、ミルタスがエリツェリの元首に立った後、その地位を固めた。どの国も、あの春分祭以降のディアトーラを怖がっているのだ。
それは、もちろん、エリツェリの元首を下ろしたのが、ディアトーラだと知ってのことだ。しかも、表面上何も動かずに。
やはり裏でリディアスが、と囁く者もいる。
リディアスの恐れを上乗せするように使うルディのそれは、魔女そのものだと言う者もいる。
さらに言えば、ミルタスですら、その息が掛かっていると言われることもある。それは、エリツェリにとって、とても都合が良い。
そのためあってか、目立とうとしないルタが魔女であること以上に、リディアスの血を引くルディに恐れを抱く者が増えてきているのだ。
柔らかい物腰で話を進めながら、相手の首を掻ききるくらいの脅しも含む、そんな彼の掴みにくさも、もちろん関係しているのだろう。しかし、本当に彼を動かしているのは、ルタであろう。
彼はルタのために動き、ルタは彼のために彼を動かす。
ただ、これはミルタスも同じなのだ。
ミルタスの進むべき道を作っているのは、タミルに他ならない。
彼は、どうなのだろう?
ミルタスはルタを見ながら思う。
普段の彼が垣間見える度に『かわいい性格』もしくは『素直で子どもっぽいところがある性格』だと思えて仕方がない。そんな彼を見ることの多いルタからすれば、歯痒いのかもしれない。きっと、これはタミルにおいても同じ感覚で、ミルタスは思われている。
元首として立たせてやらなければならない、そんな風な。
元首よりも力のある夫人役達。
「ルタ様さえ良ければ、愚痴の言い合いでもしませんか?」
そんなちぐはぐに悩むルディは、ミルタスと変わらない。
アリサ様がお休みの間だけ。ルタにタミルを映して。ミルタスにルディを映して。
「そうですわね。日射しも暖かいですし、お庭を歩きながら聞き流し合うのもいいのかもしれませんね」
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