『世界が崩れる②』
三百年という年月を考えれば、この家は確実に『否』という答えを導くはずだったのに。いったい何が起きているのだろう。
ルタは立っているのにも疲れて、鏡台の前に座る。
大きく息を吐いた黒い髪と黒い瞳のルタがいる。
大昔に捨てた姿だ。
それと共に捨てたはずの記憶も思い出される。
大昔、ルタが父母と共に住んでいたあの悲惨な城からいっしょに逃げようと言ってくれた人間が一人いた。彼は時の遺児候補の貴族達ではなく、城に出入りする単なる商家の息子だった。
その時も馬鹿なことを言う人間がいたものだと一蹴にしたのだが、それがきっかけでルタはラルーという魔女になったのだ。
誰にも受け止められなかったラルーの言葉が、風の子に盗られ、魔女に届けられたのだ。
「あなたの顔など二度と見たくありません。もう、二度と」
そんな危険な妄想をする彼を助けようとした言葉だった。それなのに、魔女に届けられた言葉は、彼を化け物に変えた。当時の魔女はもちろん母であるトーラだ。
「どうして、こんなことを」
母は言った。
「あなたの望みを叶えただけよ」
「望んでないわっ、こんなこと」
母は「そう……」と言葉を零しただけだった。その時のルタは、自分の気持ちを蔑ろにされているようにも思えた。
何の力もないくせに、思うようにならないからと叫んだだけだった。
息子を知らないかという商人には「知らない」と母は平気で答え、父が騒ぎにならないようにと、彼ら家族の記憶を母に消させた。
商人は現れなくなった。変わった過去に何も変わらない今が流れる。
望んだことは、その人間を危険に晒さないようにすることだった。それなのに、……。
母に対抗する力が欲しいと思った。父に負けない力が欲しいと思った。
人間と違い、魔女になれば、不用意に言葉を盗まれない、と思った。
母は人間だったルタの願いをただ叶えてくれた。
あの頃のルタは虫けら同然に無力で何も出来なかった。母や父の掌の上でしか、動けなかった。それなのに、彼らは娘の声を聞こうともしなかった。認められれば、声が届くのではないか。
ただ、存在を認めて欲しかっただけだったのだろう。力を求め、奪われないようにしたかっただけなのだろう。
皆、同じだった。ラルーも変わらなかった。
どれだけ力を付けても、どれだけ、父母の創る世界を護っても、認められるどころか、遠く、彼らは遙か遠退いた。だから、失うと思ったあの時、奪われたと思ったあの時、この『世界』のどの時間にも縛られない魔女、ワカバを憎んだ。そして、思うようにならない、世界を恨んだ。
つまらない感情だった。しかし、同じように苦しみ、同じように願い、同じように消え去った者達を、永遠に覚えておきたかった。いつか、誰かが望めば、叶えられるようにしておきたかったと言えば傲慢なのだろうか。
鏡に映るルタでは、もう出来ない。あの時と同じで、ちっぽけで無力だ。どうやってもトーラには敵わない。
ルタは時を刻み、時を失う人間なのだから。
誰にも受け止められなかった言葉を、風の子が拾い、魔女に届けられたら……。
ワカバが母と同じように言葉だけを取り上げるとは思わない。ワカバが理由なく、誰かを傷つけるとも思えない。ルタがずっとラルーを見つめていた。答えを求めていた。
「どうしたいの?」
「あなたの望むように、望めば良いのよ」
人間なのだから。……ルタは人間なのだから。ラルーは今まで誰かにかけてきた言葉を脳裏に浮かべる。
過去は今とは違う。だから、同じになるとは思えない。
ルディが言った『好き』の意味は、よく分からない。だけど、ルディはきっとルタの言葉を素直に受け取らない。
領主夫人となるという意味は分かる。
何度も『好きだ』とは言われていたが、その『好き』はいったいいつからラルーの思う好きと違ってきていたのだろう。
そして、その『好き』はラルーの思うものとどう違うのだろう。
違う、ということだけしか分からない。
同じように付き合っていたセシルの『好き』は変化しなかったのに、ずっと同じだったのに。
だけど、また、あの時みたいに、と思うと恐ろしくなってくる。
ルディの顔をもう二度と見たくない、そんなことは思わない。少し変わった人間だけれど、可愛いと思って付き合ってきているし、好きであることに間違いはない。
しかし、ラルーと関わり続けて良い影響があるわけがない。さらにはここまで送ってくれたセシルが、ルタに尋ねた最後の言葉「ラルー様はルディを愛してくださっているのですか?」という意味がラルーに重たく響いたことは確かだ。
ルタは大きく息をつく。
大きく言えば、もちろん愛しているとは思う。
しかし、セシルのこともアースのことも、それこそディアトーラのことも同じように愛しているに含まれてくるのだ。大切に思っている。好きだと思っている。失いたくないとも思っている。
そう思えば、ワカバのことだって愛しているに含まれてくる。
何かが違う気がする。色なのか、匂いなのか、温度なのか。ルディの『好き』もセシルの『愛している』もルタの抱く思いとは同じ方向を向いていて、全く違うように思える。
分からないということは、血迷っていると思ったルディを正すことも不可能である。そもそも、彼の論理上、彼は血迷っていないのだ。それこそ、ルディの論理で言えば、ルタの考えは論外と言われてしまう。
だから、理解できると思う方に逃げてみる。夫人になるということは。想像だけはできる。過去にであってきた元首の夫人達の立ち居振る舞い、存在意義。様々あったが、どれも変わらず国のために動く者だ。
ルタがルディの横に立って歩く。
それは魔女としてではなく、夫人として。
しかし、魔女であったということは、消えない。どういう風に振る舞えば良いのだろう?
立場としては、ルディが上となる。後ろに控えて、大人しくする。そのくらいは出来るが、夫人としてそれだけで良いこともないだろう。特に、将来ディアトーラ領主となるルディにとって、お飾りの妻であることは許されない。ディアトーラはお飾りを養うほど余裕のある国ではないのだから。
各国とも顔を合わせなければならない。
魔女としてのラルーの顔は世間に広くはないが、元首に広く知られている。
これからのディアトーラを担うルディの足を引っ張ることも目に見えている。
ルタとして前に立てば、ある程度上手くはやれるだろうが、ディアトーラを本当の魔女の国にしてしまう。
盤上の駒として、ルタは人間として歩むこと自体が詰んでいる。
鏡の中のルタが、寂しそうにラルーを見つめていたが、何も答えられない。
どうすればいいの?
頭の中がぐるぐる回る。
ラルーではないルタ。
そう思い、窓辺へと。
一階にある客間からの空は遠い。森も見えない。これからは、一人、ときわの森で静かに暮らしていこうと思っていたのに。
出来れば、誰の記憶からもいなくなりたいと、思っていたのに。
ワカバが用意したルタの場所を、すべてを終えたワカバが使えば良いと思っていたのに。
だけど、本当に森へ戻りたいのだろうか? もう彼らとは関わりたくない、のだろうか。離れたいのだろうか?
泣き虫なルディの未来に影を落とす答えは、出せない。だけど、この世界から奪われたくはない。
何度考えても答えは出ない。
「ワカバ……わたくし、ほんとうに、どうしたら良いのかが全く分かりませんわ」
空は答えず、更けていく。
クロノプス家の黎明期。そんな意味を含みながら、あの薔薇の木の下へとつながっていくのだった。
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