『ラルーにはよく分からないことがある②』

 セシルの不安は完全には拭えていない。しかし、彼女もその温かい牛乳を一口含む。

「ラルー様がそう仰ってくださるのであれば、……あの子をよろしくお願いします」

 深く何かを呑み込んだ言葉である。しかし、セシルの表情は憑き物が落ちたように、緊張が解けていた。そして、扉が叩かれた。セシルに言いつけられた通り、ちゃんと着替えて戻ってきたルディだ。

「失礼しました。お話を伺いに参りました」

 そして、告げられた言葉に「えっ」と叫んだルディが唐突に立ち上がった。そんなに驚くようなことを伝えたつもりもないラルーは、その状態のルディに首を傾げて見つめ、セシルは驚いた口が塞がらなくなった。


 呆れられている当の本人、ルディはただただ唖然としていた。

 ラルー様が魔女様でなく、ルタ様になって、それで……。

 人間として?

「……どういうことでしょうか?」

 ルディの頭の中がぐるぐる回る。

「言葉通りの意味ですけれど……」

「人間になるって? 魔女ではなくなるってことですか?」

「えぇ」


 立ち上がったままのルディが何度も訊き返す理由がラルーには全く分からなかった。

「それで、お約束のお話なのですけれど」

「はい、えっと、でも、それじゃあ、本当に消えてなくなることはないんだよね……」

 ルディのそれは、最早尋ねているのか、独り言なのかも分からないし、さっきから頭の中でずっと呟かれていることなのだ。それがやっと口に出ただけ。

 さらに言えば、先ほどからルディの考えは同じところをぐるぐる回っている。人間である。魔女じゃない。えっと、だったら、僕が魔女様を、じゃなくて、ラルー様でもなくて、……ルタ様を好きでいて良いのかな?

 これは今に始まったことではないのだけれど。


 ルディは他の人間よりもおかしなところがあるとラルーは常々思っていた。魔女の話を聞いて「かわいそう」と泣き出すし、泣いたと思っていたら「なんで殺しちゃうの」と憤るし。この世界を消そうとする魔女だから、消されたのだ。そう説明しても、納得いったことがないし。

 ワカバですら、そこはなんとなく感じ取っていたところなのに。


 何よりも、誰もが嫌うラルーによく懐いてくれているのだ。セシルの好意は、会って嬉しい、お話が楽しい程度の好意で、信用してくれているということがよく分かるのだが、ルディは、シッポを振って付いてくる仔犬のような懐き方なのだ。


 相手が遊んでくれると信じて疑わない素直さがあり、遊べないと知ると悲しそうになる。小さい頃は、それに加え、どうして拒まれるのか、分からないよ、くらいの視線を投げかけて来ていたのだから、本気で仔犬かと思ったこともあった。仕方なく、手を差し伸べると、打って変わって、嬉しそうにするような。

 さすがに最近は表情にまでは表れていないけれど。分からないよ、とは言わなくなってきてはいるけれど。さすがに、遊ぼうとは言わなくなっているけれど。


『魔女』を好きでいてくれているのは嬉しいのだけれど。魔女が嫌いだからワカバが嫌いになると悲しく思うことも確かではあるのだけれど。

 そして、今のルディの状態は、そんな幼い頃によく似ていた。

 ずっと、よく分からないよ、の状態である。

 何がよく分からないのか、ラルーにはよく分からないのだ。


 ただ、ラルーが人間のルタになるだけで、それ以上のこともそれ以下のこともない。たとえ、ルタになったとしても、銀の剣で『魔女を討つ勇者』を探そうとは思っていないし、そもそも、ワカバを殺せるとすれば、ルオディックだけなのだから、今のラルーにはどうしようも出来ないのだ。

 せいぜい、抵抗して滅びを数年延ばす程度だ。

 そして、おかしなルディを眺める。


 たとえルオディックに顔立ちが似ていても、ワカバが自分の思いと天秤に掛けて、ルディを殺せないほど躊躇う理由もないだろう。ルディを辿らなくても、おそらく、ワカバなら別の道で辿り着くだろうし、それこそ、ルタにお客様を会わせるというのなら、遠回りでもルタの記憶を辿れば、いつかルオディックに辿り着く。

 みすみすルディを捨て駒にする気もないし、『銀の剣』をこの世界のために使えないということも変わらない。


 確かにディアトーラにとって魔女の存在は大きいだろう。魔女に見捨てられれば、リディアスへの牽制を打ちにくくなる。だから、ルディが口に出して「好き」と言えば、安心出来るように「好き」だと答えているのだけれど、安心するどころか、どうしてか不安らしい。

 ルディがラルーを好きであろうと、なかろうとどちらでも構わないのだけれど。魔女でなくなると言うことだけで、そんなに不安になるくらいなら、魔女でなくなれば、ここを去るべきだろうか。


 いや、しばらくはここでこの国の様子を見守るべきかもしれない。いくらルタの姿になったとしても、この国から急に魔女の畏れを取り除いてしまっては、さすがにこの国の防衛面に不安が生まれる。この数十年の間、穏やかにこの家族と関わってきているラルーは、いくら恐れられてきた魔女だったとしても、そんなにも薄情にはなれないのだから。


 しかし、ルディの不安はここから来るのだろうか?

 いくら考えても答えは出なかった。

 ただ、今日はこれ以上話をしても彼の頭には何も残らないだろうな、ということだけがすとんと理解できた。


 そして、ぐるぐる回るルディの考えを読むのを止め、「とりあえず、座ってお話ししましょうか」と、そのまま彼に合わせようと、ラルーは思ったのだ。しかし、セシルは違ったようだ。

「ルディ、はしたない。座りなさい」

 セシルはルディに目を合わせずに、ただ厳しく声を発する。それでもルディはそんなセシルの表情にも気付かない。ラルーは、そんなセシルに「大丈夫ですよ。ルディは、元々、変わった人間ですから。気にしておりませんわ」と伝えるべきかを悩みながら、そんなルディを考える。


「だって、魔女様が、人間だよ、ずっとだよ」

 何を説明したいのか分からないが、セシルにルディが訴える。確かにルディは、魔女が好きな、おかしな人間なのだけれど……。そんなにもルタという人間になることが嫌なのだろうか。ラルーにはやっぱりよく分からない。


「ルディ、いいから座りなさい」

 二度目の注意にも、ルディの頭の中はまだぐるぐる回ったままだった。セシルが羞恥に耐えかねて、もう一度叫んだのと、素っ頓狂なルディの声が発せられたのは、ほぼ同時だった。


「ルディっ」

「本当の、人間になるのですか?」


 そんなルディにラルーは、最初に思っていた話をすることを本気で諦めた。今話をしたとしても、結局同じところに戻ってくるのだろう、と思ったのだ。

「それを含めて、何かお尋ねになりたいことがあれば、答えますわよ」

 そんなラルーにルディは好奇心に勝てない子どものように尋ねた。


「そもそも、魔女ってなんですか?」

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