『ラルーにはよく分からないことがある➀』
雨の中、雨にも濡れずにラルーが立っていた。
いつの間に現れたのか、ルディがカズの背を見送り振り返ると、誰もいなかったはずの玄関扉前には彼女が立っていた。深い緑の瞳に柔らかな紫色の緩やかな癖毛。いつも通りのラルーの姿だった。
「そろそろおかえりかと思いまして」
「もしかして、お客人が?」
はっとしたルディが慌てて駆け寄るが、ラルーはまったく慌てずにそのまま微笑む。
「いいえ。お客様はまだ先だと思いますわ。でも、お約束がありましたでしょう?」
「やくそく?」
「覚えてませんの?」
少しだけ不思議そうな表情を浮かべたラルーに、ルディは焦りを覚えた。約束にまったく覚えがないのだ。大切な約束を知らない間にすっぽかしてしまっているのではないだろうか……。だから、ルディは素直に謝る。それしかできない。
「あの、どんな約束でしたでしょうか?」
そんな情けない顔のルディに、ラルーが「ふふ」と笑い、独り言のように呟いた。
「気にしていたのはわたくしだけでしたのね。いいえ、謝らなくても大丈夫ですわ。大した約束でもありませんし」
今度はルディが頭をぶんぶんと振ってそれを否定する。
「いいえ、本当に申し訳ありません。どうぞ、教えてください」
そして、「あ」と思い出す。
「あ、どうぞ、中へ。こんなところじゃ、風邪引いちゃう」
それに対してラルーは優しくルディを見つめるだけだった。風邪を引いて、寝込む可能性がある者は、ルディだ。時が止まっているラルーである今は、この世界のどんな影響も受けない。受けたとしても、元に戻ろうとする。それは、ときわの森に住む魔獣も同じ。
戻ろうとする時の刻みを止めさせなければ、死なない。
ルディが「どうぞ」と扉を開くので、ラルーは「ありがとう」と中へ入った。
扉を潜ると真っ直ぐな廊下が広がり、突き当たりに食堂がある。突き当たりから左右に分かれ、再び入り口へと向かう方向へと廊下が伸びている。一つは薔薇園に出る扉を持ち、一つはハーブ園に出る扉を持つ廊下だ。その一方、ハーブ園側の廊下からセシルが現れ、「ラルー様っ」と叫ばれた。
教会からの帰りだったのかもしれない。ルディに代わり、ラルーをもてなすセシルは揃えのカップをその手に包むように持ち、叱られた子どものようにラルーから視線を外して、ラルーの対面に座っていた。
セシルは濡れた衣服のままのルディに着替えてくるように言いつけ、温かい牛乳をラルーに淹れてくれていた。セシルは牛乳が好きな子だった。不安になると、温かい牛乳にはちみつを入れて飲む。セシルの唯一の贅沢だった。
「先ほどは、申し訳ありませんでした」
セシルがしゅんとして謝る。しかし、セシルの行動すべては、すべてが真実である。
ラルーを見つけたセシルが、ルディを心配しただけなのだ。ラルーはそれも知っている。
「いいえ。母親ですもの」
しかし、本当のところを言えば、その心配の理由が全く分からないということも事実だった。ラルーからすれば、単にお使い程度のことを頼んでいるつもりなのだ。
どうもこの家の者はラルーが彼に世界を滅ぼす片棒を担がせると思っているようだけど、実際にこの世界を滅ぼすのは、ワカバなのだし、そのお客様の思考の道筋に影響を与えようと企むのは、ラルーなのだから。さらに言えば、直接ラルーのいるときわの森の家にお客様を飛ばしてくれれば、何にも問題ないし、そうなれば、クロノプス家が関与することもなくなる。
要するに、ラルーにとってワカバが問題なのだ。ワカバは器用ではない。ラルーの家に下ろすつもりだろうけれど、細かく目標を定めてその客人を下ろすことが出来るかどうか分からないのだ。だから、無事に保護するために領主跡目に頼んでいるだけで。跡目なら役目もあるし、領主夫妻ほど他の国々を巡らないから。ただ、アースでもいいと言えばいいのだが、そこはラルーにとって譲れない場所でもあった。
こういう所を揺るがしてしまうと、クロノプス家と魔女との均衡が崩れてしまうと思うからだ。それに、誰でも良いのでは、その家にとって、どうでも良い人間を作りだしてしまう。
「こちらこそ、頼み事で手を煩わせてしまっていますから」
だから、そこはセシルに素直に謝る。
それにしてもセシルは本当に変わらない。心配して何とかしようとするところや、出来なくて早とちりしてしまうところとか。結局影に隠れて、泣いてしまうところとか。
曲がらないくせに、怖がりなところとか、それなのに、人のためなら前に立って戦おうとするところとか。
まったく変わっていない。
「セシル」
名前を呼ばれたセシルがもう一度謝る。
「本当にすみませんでした。私、心配で」
人間と魔女なのだ。謝る必要はない。相容れないものもあるのだ。分かり合おうとも思っていない。だけど、ラルーは、セシルが不安なく過ごせる未来もどこかで願っている。
「思わなくても良いとは思うのですけど、どうしても、ミランダ様やルオディック様のことを思い浮かべてしまいます。ルディにつなげてしまいます」
ルディがルオディックに似ていることは確かだ。それも心配要因になっているのだろう。ただ、ルディに関して言えば、まったく心配ないことなのだ。それは外見の問題だけで、ルディはミラルダの時のようにミランダの器として用意された者でもないし、ルオディックのように別の時間軸から生み出された者でもないのだから。
彼はこの世界を作る駒の一つ。世界が変わろうとも、消えることのない確固たる存在である。
しかし、ラルーはそれを伝えなかった。これから先のことが分からない限り、ラルーのその言葉は真実にならないかもしれないからだ。
ラルーにもワカバの真意は分からない。ワカバがこの世界を手放す理由なんて、分からない。
この世界が消えてなくなった後のことなど、次のトーラが生み出す世界など、単にトーラの娘であるだけのラルーに分かるはずがないのだ。与えられている力の大きさが違うのだから。
『ラルー』はその意志に従うだけの存在。しかし、ワカバはラルーを『ルタ』に戻そうとする。それは本当にただ力を失うというだけを意味するのだろうか。
そんなことを巡らせたラルーは無意識に温かなカップに縋っていた。
「温かいですわね。雨で冷えていたのでとても嬉しいですわ」
両手でカップを包んだラルーは、落としていた視線をセシルに合わせ、静かに続ける。
「ルディは良い子に育ちましたね。言葉遣いも丁寧に出来るようになりましたし、剣術の方も毎朝お稽古を欠かしていないのでしょう? 前向きに頑張るところはセシルにそっくりです。そして、今は跡目としての勉強も頑張っているのですよね。とても大切な時であることも存じておりますわ。それに、彼はセシルが大切に育てた者です。わたくしもセシルの大切な者を大切に思っております」
「ラルー様……」
ラルーの言葉の一区切りで、セシルが視線をあげて、ラルーの姿をその瞳に収めた。ただ静かに、ラルーの視線は伏せられている。牛乳から立つ湯気まで穏やかに立ち上り、心配や不安とはほど遠いものにしている。
「ルディにも話そうと思っていたことです。大したお話ではありませんが、私の予想です」
これは、ラルーの勝手な予想。そして、願望。
「ワカバはこの世界を完全に消そうとは思っていないはずです。変えられない未来であるからこそ、ここにそのお客様を寄越そうとしているのです。お客様のその記憶を辿れば、トーラなら……この世界に辿り着きます」
いや、揺らぐことなくトーラを編むことの出来るワカバなら、ここから過去を辿り、機会を窺い、もう一度彼のいたこの世界を紡げるかもしれない。そのために、今を選んだ。
ルオディックに外見が似ているルディのいるこの時間から、彼を導く。
本当にこの世界自身が滅びる瞬間が来るのかもしれない。だから、ワカバがこの世界を凍結させるのかもしれない。護りたいから、流れを止める。
だから、ラルーはルタに戻るのだろう。おそらく、人間としてのルタは彼女の保険なのだ。人間であるルタなら、トーラにこの世界を望めるから。
「ワカバ様なら……信じられますよね」
「えぇ」
ラルーがにっこりとした笑顔をセシルに向け、さらに続ける。この国の未来を見せなければならないのだ。そうでないと、セシルの不安は収まらない。
「そして、この世界から『魔女』はいなくなるはずです」
すると、セシルがきょとんとして、「どういうことでしょうか?」と真っ直ぐにラルーを見つめて、尋ねた。
「ワカバのことです。わたくしもこの世界の駒として、遺してくれるつもりだと思います。だから、この国のあり方も考えていかねばなりませんね」
魔女のいなくなったディアトーラのその後のあり方を。
ただ、ラルーが人間になることは伝えるが、その他はルディに言うつもりはない。
この国の将来を担うことになる彼には、自力でこの答えにたどり着いてもらわなければならない。
「ルディは辿り着けるかしら。わたくしは、彼の進む未来を見届けることも楽しみにしていますのよ」
ラルーが両手で包んでいたカップに口をつけた。そこで、話を止めたラルーのそれは、会話の中に出てきた『もう一人には秘密』を意味するということを、セシルはちゃんと知っていた。
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