エピローグ:雪原に降り注ぐ光に包まれ
たった六年前にあんなことがあったなんて全く嘘のよう。
ルディは晴れた空を見上げてそう思う。
もっともっと、時間が経っているような気がする。
思い出すだけでも怒りが沸き起こってくる六年前の春分祭は、しかし、ルタがリディアスに認められた春分祭でもあった。
そんな風に思えるようにもなるくらい、時間は記憶を癒し、ぼんやりとした背景に変えていく。
ヒガラシは、随分大人しくなったときわの森の村に住み、月に一度だけここで庭仕事をして帰っていくということを、真面目に淡々と繰り返している。不思議なことは彼に対してあったはずの憎悪というものも、あの時ほど溢れてこなくなったということだ。
こちらから話しかけることもなく、あちらから話しかけられることもないが、所謂『殺意』のようなものがルディの中で感じられなくなっているのだ。それが良いのか悪いのかは分からない。許すとか許さないとか、そういうことでもない。
ただ、時は流れ、進んでいく。
ルタが薬作りを始め、クミィがその薬作りを習い、あの時助けたエリツェリ兵の一人、フレドがディアトーラに残りたいと言った。肉屋の養子に迎え入れられ、森の護衛の仕事を手伝ってくれるようになっている。
その後くらいからテオがカズの下で手伝いを始め、ルディに剣術の指南を受けるようになった。筋は良いけど、手に負えないから見てやってと言われたのだ。確かに、テオは筋が良い。
それから、ミルタスが元首に立つのを見届けるかのようにして祖父のアースが亡くなり、その四年後にアサカナ王が、リディアスの出航を見届け、亡くなった。
嬉しいことも悲しいことも、すべてが穏やかな流れとなり、通り過ぎていく。
エリツェリにタミルが入り、アリサの庇護から抜けたミルタスが完全な元首となったのは今年のことだ。
信じられないとルディは憤ったが、ルタは特に何も思っていないようだった。
「タミル・a・バーグとして入っていらっしゃるということは、表にはとい立たないうことでしょう?」
確かにそうなのだけど。
ワインスレー地域では元首もしくは跡継ぎは『w』を。共に立つ者は出身国の頭文字を名乗る風習がある。だから、ルタは共に立つ者として『クロノプス』と『d』を名乗ってくれている。ここが出身国であると。ディアトーラの顔はルディであると。ルタはディアトーラ以外どこの国にも属していないと。魔女であったこと以外に影響力はないと。そんな意味を込めて。
確かにタミル・w・バーグなら、ミルタスの関白くらいの意味合いがあったのかもしれないのだけれど。もしそうだとすれば、本当に敵に回したくない相手が、ディアトーラの傍に来たのだとも考えられたのだけれど。
「お友達が傍にいらっしゃったのですよ?」
「割り切れない」
親友だと思っていた相手が、因縁しかない国に嫁ぐ。しかも、リディアスが仲人である。腹を探られる様になるかもしれない。
ディアトーラにとっても大事な駒を取られたわけだ。
「タミルは誠実な方なのでしょう?」
ルタはどうして分からないのだろう、とルディは思うが、ルタもきっと同じように思っているのだろう。
ルディは、どうしてそんなことを気にするのだろう。きっとそんな風に。
「自国を名乗るってことは、リディアスやエリツェリがアイアイアと直接交渉できるってことじゃないか。裏切られた……とは言いたくないけど……」
裏切られたとは思えない。でも、だったら、『a』だって名乗らなくても良いはずだ、とも思ってしまうし、さらに言えば、『バーグ』まで。アイアイアのバーグ家といえば、アイアイア王にまで口を出せるくらいの力のある貴族なのだ。いや、実際国を動かしているのはバーグ家だといっても過言ではないのだから、実質アイアイアという駒はリディアスに取られたと考えていい。もちろん、ルタが言うようにおそらくタミルは公平に動くだろうし、タミルに探られて痛い腹もない。だけど、だから割り切れないのだ。
考えれば考えるほど、リディアスにしてやられたとしか思えないのだ。ルディは一人で歯がみする。
ルタは「やっぱり納得いかない」と言うそんなルディを見て、クスリと笑っていた。
そして今、ルディの傍には毛糸の帽子に毛織りのポンチョを着たルタが、シャベルを雪に突き立てて、子ども達を眺めていた。暖かい格好はしているが、時々、白い息を吐きながら、手袋の上からその手を温める。ルタは意外と寒がりである。その頬が寒さに赤くなっているのを見ると、ルディはなんとなく嬉しくなるのだ。ルタの肌は白いから、朱が差すととても目立ち、それを指摘すると、ルタは必ずと言ってこう反論する。
「人間の体が弱すぎるのです」
だから、ルディもいつも同じように答える。
「確かにね」
確かに、ラルーという魔女だった頃のルタはくしゃみ一つしたことがなかった。
だから、今日はまだ暖かくて良かったとルディは思う。
普段、館の雪掻きは呼んでカズくらいなのだが、今年は賑やかなものだった。フレドも手伝いに来てくれているし、ずっと剣術の稽古に通ってくるテオや薬作りに励むクミィも、カズの家族とその子どもら三人も。晴れの日の雪に、はしゃぐエドもやってきて、ルカの声と共に庭を笑顔で満たしている。
ルカとエドは、ミモナ、モアナの妹のマナを引き連れ、雪だるまを作ろうと雪を押し続けていた。しかし、それが動かなくなったようで、エドと二人して背中で押してみたり、蹴飛ばしてみたりしながら四苦八苦しているようだ。そして、それに加勢するミモナとモアナ、声援を送るマナがいる。ルカの体の大きさからすれば、雪の大きさを欲張りすぎたのだ。
だけど、なんとなく、もう少ししたらテオがそれを手伝いに来そうな気もするし、あの子たちだけで動き出すかもしれないとも思える。
あの雪だるまは、きっとあの大きさで間違っていないのだ。
ルディも同じようにそんな子ども達を見て、シャベルを雪の中に突き立てた。
「大丈夫?」
「えぇ、みんな元気で楽しそうですね」
ルタは気遣われると、いつも大丈夫だと答える。気遣われなくても大丈夫だと答える。これは全く変わらない。
「ちょっと休憩する?」
「そうですわね……」
空を見上げたルタにルディが会話を続ける。
「珍しいよね。こんなに晴れるの」
冬の空は灰色。それなのに、今日は薄水色の和紙を梳いたような空があり、その遠い空に小さな太陽すら見えるのだ。
「雪を掻くのには良い天気ですわね」
「ほんと」
吹雪の止み間に、それでも雪を掻かなければならない、なんてこともあるのだ。放っておくと扉が開かなくなる。そう思いながら、突き立てていたシャベルを持ち直した時に、ルタが口を開いた。
「ルディ、……赤ちゃんがいます」
「えっ? どこに?」
こんな雪の中、赤ん坊がいるなんて。
ルディはルカの時のことを思い出しながら、周りを見渡したが、それらしき者は見当たらなかった。あるのは、先ほどと変わらない平穏の音のみだった。
「いないみたいだよ? 気のせいじゃないの?」
ルタが小さく頭を振って「あなたの子どもです」と繋げた。
ルディが目をしばたたかせた。
「えっ?」
ルタとルディの視線がルタのお腹でぶつかる。
「赤ちゃん? いるの?」
ルタが肯く。
「えっ!」
一瞬で凍り付いてしまった思考回路で、ルディは今を思い出し、慌ててルタからシャベルを奪い取る。
「えっ!? 待って、そんなことしている場合じゃないでしょう? なんでもっと早く言ってくれないの? えっ、外に出てて大丈夫なの? どしよう、ルタが、……カズっ、ルタがっ」
その声にカズが「どうしました?」と少し離れた場所から叫び、走り寄ってくる。
「大変なんだっ。ルタが」
呼びつけられて、異常に慌てているルディにカズも慌てて、その『大変なルタ』の様子を眺める。しかし、何も変わったことはなさそうだったので、カズはほっと胸を撫で下ろした。また毒を飲むくらいの出来事が起きていたら、と一瞬、想像してしまったのだ。
「奥様が?」
「うん、ルタがっ……」
そう言って、ルディがカズに抱きついた。
「赤ちゃんなんだっ」
やはり思考が追いつかないカズが、ルディの言葉を考えて、苦しそうにルタに視線を動かした。
「本当なのですか?」
「えぇ」
ルタの返事にルディが「ルタが、赤ちゃんなんだ」とやはり同じ言葉を繰り返す。
「俺に抱きつくなよ……」
「だって、赤ちゃんだし……何かあったら大変だし」
涙声のルディの声が聞こえる。カズは穏やかに笑いながら、ルディを引き剥がすことを諦めてしまった。
「はいはい、良かったな。おめでとう。だからって、泣くことないだろ」
「赤ちゃんなのに、それなのに、……雪掻きしようとするし……してたし……」
人間は弱いって言うくせに、自分のことは大丈夫だってすぐに言うし……。
「それは、おやめになった方が良いんじゃないですか?」
「そうなのですか?」
きょとんとしながらも、ルタはシャベルをルディから取り戻そうとはしなかった。だから、カズは「もちろんです」と穏やかに答える。
「分かりましたわ……でも、ルディ、わたくしは赤ちゃんじゃありませんわよ」
ルタはもう一度、空を見上げた。なんて愚かだったのだろう。こんなにも大切に思ってくれているのに、未来が見えなかっただなんて。
未来はあったのに。
それでも、ルディの様子が可笑しくて、微笑みが先に訪れる。そして、躊躇って言えなかったことに呆れてしまう。
「ご懐妊おめでとうございます」
泣き虫のルディに抱きつかれたままのカズが申し訳なさそうに、言祝ぐ。
「ありがとう、カズ。これからもわたくしたち家族をよろしくお願いいたしますわね。頼りにしておりますわ」
「ありがたいお言葉でございます」
「カズ、どうしよう……ルタに見せる顔がない……」
泣き止めないルディが泣き言を言って、カズに縋っていた。
そんなルディを、ルタは好きだと思った。
堪えきれなくなったルタの笑い声に応えるようにして、空はずっと青く澄み渡り、雪原に降り注ぐ光に包まれるようにして、幸せな笑い声が幾重にも重なり始めた。
*――*――*――*――*――*――*――*――*――*――*――*――*
第一幕はこれで終了です。
第二幕に入る前にルタが魔女から人間になった頃のお話を幕間劇として差し込みます。すこし手入れをしたいと思っていますので、一旦毎日更新をストップさせていただきますこと、ご了承ください。
❀更新ごとに読んでくださった方、♡で応援してくださった方、☆をくださった方へ❀
更新する度に一人ではないんだ、読んでくださっているんだという励みとなりました。本当にありがとうございました。
また、面白いな、続きが気になるななど、何か感じることがありましたら、♡や☆、コメントなどの形でお知らせくださると、更新の励みとなり、大変嬉しいです。
では、次幕でもお目にかかれることを楽しみに、更新準備を始めたいと思います。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
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