第11話 ワトソン邸

「この砂が全部落ちたらお風呂に入れるから、それまで少し待っていて」


 暖炉前に並んだ椅子の間に置かれた八角形の木製テーブルに、オードリーは砂時計をひっくり返した。細い銅のフレームの中に、病気で腫れあがった蜂のようなガラス細工が捕らわれている。濃紺の砂がシルクの糸のようにきらめきながら落ちていく。


 落ちて山になっては崩れていくガラスの中の砂を、椅子に浅く座ったキーラが見つめていた。砂時計の隣に白いソーサーと、その上に中身の入ったティーカップが静かに置かれた。


 キーラが顔を上げると、オードリーは微笑んで向かいの椅子に座った。


「オードリーは飲まないの?」


「ええ。これはあなたのために淹れたのだから」


 カップから柔らかい湯気が渦を巻きながら立ち上って空中に溶けていく。ほんのりとセージの匂いがした。


「元気が出るようにはちみつを少し入れて、魔法をかけた」


 視線に促されたキーラは恐る恐る手を伸ばし、小さく一口だけ飲んだ。ミルクはまろやかではちみつは甘く、紅茶の温度よりも温かい何かが体を芯からじわりと温めた。


 ほう、と息を吐けば、まぶたを支えていた力が抜けてとろんと栗色の目が溶けた。


「おいしい?」オードリーは様子を伺うように上目遣いをした。


「うん、すごく落ち着く味だよ」キーラは言った。口の中でこっそりとあくびを噛み殺したが、いつもの癖で思い切り目を閉じてしまった。


「眠たい?」


 オードリーの優しい声に、キーラは薄い涙の膜が張った目を細めて気まずさに苦笑いした。


「ちょっとだけ。今日はいろいろあったから」


「いろいろって何があったの?」オードリーが微笑み返しながらいった。


「ん、そうだね……」キーラは紅茶に視線を落とし、記憶を遡った。「いろいろは、いろいろだよ」


「いいたくないようなことがあった?」オードリーは心配そうに眉尻を下げながらも、優しい微笑は崩さなかった。


「そうじゃないけど、話すとすごく長いんだよ」


「時間はあるから全部聞かせて」


 二人は砂時計を見る。まだ三分の一も落ちていない。


「全部ってどこから?」キーラはいった。


「それじゃあ」オードリーはスカートのポケットから、折り畳んだ紙切れを取り出した。「あなたがこれを私の家のポストに入れたところから」


 白くて細い人差し指と親指に挟まれた羊皮紙に、キーラは思わず笑い声を漏らした。まさかもう一度その紙切れを見ることになるとは思わなかったし、オードリーが捨てずに持っていてくれたことが嬉しかった。


「じゃあ今日の夜明け前、君の家の前に着いたところから話そうか」


 キーラは朝にオードリーのポストへ羊皮紙を入れるところから、夜のバーナード街に辿り着くまで、順を追って話した。楽しい物語を語る余裕はなく、ぽつぽつと覚えていることを話した。


 話している彼女自身ですら眠ってしまいそうなトーンだったが、それでもオードリーは彼女が語る冒険譚にときどき質問しながら熱心に耳を傾けた。


 話が終わってオードリーは視線をテーブルにやると、あっ、と小さく声を上げた。


「砂が落ち切った。お風呂がもう温まっているはず」オードリーは立ち上がった。「来て。案内するね……といってもすぐそこなのだけれど」



 すぐそこもすぐそこ。バスルームは隣接していた。


 白くて柔らかく清潔な寝室着とタオルをキーラに手渡したオードリーは、白と紺の正方形のタイルが交互に敷き詰められた小さな部屋に彼女を一人残し、艶のある黒いドアを閉めた。


 しんとした部屋で一人きりになったキーラは、白い陶製のバスタブと向き合う。大衆浴場しか知らなかった彼女にとって、部屋の中に、湯がたっぷり入った人間が浸かるための容器が陣取っている光景はもの珍しく、感動的だった。


 借りた衣類などを、バスタブの近くにある黒い鉄の脚がついた椅子のような台に載せる。着ているものを脱ぎ、軽く畳んで台の下に置いていく。すでに十分すぎるほど汚れているのだから、今さらいくら汚れようと構わなかった。


 部屋の中は湯気が満ちていて服がなくても十分に暖かい。最後にソックスガーターを外して靴下を脱ぎ、裸足の指先でタイルに触れると、ぞくりとする冷たさが血管を伝って心臓まで凍りつくようだった。


 慌てるのはこの部屋には不相応な振る舞いだと感じたキーラは、慎重に爪先立ちで數歩、バスタブの前まで移動する。緊張に息を止め、清潔で透明な湯にそっと足を入れる。熱すぎず、体温よりも少し高い水温にほっと緊張が解けた。足がバスタブの底に触れるともう片方の足も入れ、座り込んで肩まで湯に沈める。よく見ると揺らめく水面のモザイク越しに、キーラの体の下で淡い光を放つ白い魔法陣の断片が見える。それが湯を適温に温め続けているのだ。


 脚や手にできた細かい傷がピリピリと心地よく痛んで癒えていく。目に見えて傷が塞がっていく。しばらくすると、皮膚の表面はつるりとして小さな痕も消えてなくなった。


 キーラはすっかり綺麗になった自身の膝を見て、喜びと同時に少しの物悲しさを感じた。彼女にとって傷は記憶を呼び起こすための鍵だ。膝の、傷があったところを水中で触れる。今日、怪物の目を撃ち抜いて、空から堕ちたのだ。


 奇妙で慌ただしい一日だった、と振り返る。あまりに多くの事件が起こったのだ。その大半がそもそも確かに現実だったのか、まるで薄暗いベッドの中で眠れない子どもに聞かせるおとぎ話のようなことばかりで、今もまともに信じられない。傷が消えてしまった今、確かだったと証明できるのは木箱に眠るオーブモールの卵と片目が潰れた怪物だけだった。記憶など当てにならない。時の波に少しずつ削られるうちに形を変えて、いつかは消えてしまう。


 ずるずると沈んで、キーラは鼻の下まで湯につけた。金色の細く柔らかい髪が水面に花のように広がった。


 そして静かに目を閉じた。



 柔らかく温かいものに包まれて横たわっている幸せな感覚の中で、キーラはぼんやりと目を開けた。輪郭がにじんだ視界の中で、オードリーが赤い髪を肩からまっすぐに流し、座ってハードカバーの本に夢中になっていた。


 キーラは自身を覆う布に触れて、状況を確かめる。バスタブの中にいたはずだったが、今はどうやらベッドの中らしい。キーラが上体を起こそうと身じろぐと、オードリーは本から顔を上げた。


「まだ起き上がらないで」本を閉じると、オードリーはそれをナイトテーブルに置いて立ち上がった。


 キーラは大人しく枕に頭を沈めた。


 のっぺりとして退屈な白い天井は、壁にかかったランタンの灯りでオレンジに照らされていくらかましに見えた。


 ドアが閉まる小さな音が、静かな部屋に遠慮がちに響いた。

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