第10話 赤髪の女神様

 バーナード街に足を踏み入れたころ、空はすっかり濃紺のベールに包まれて一番星も目立たなくなっていた。


 ようやく見慣れた景色や匂いに触れて、キーラは気づかないうちに張り詰めていた緊張が解けてため息をついた。帰ってきたのだ。


 夜のバーナード街は活気にあふれていた。仕事を終えた人々が自分の人生を取り戻そうと、何の役にも立たない楽しげな置き物に金を払い、栄養を犠牲に幸福を練り込んだ食べ物で腹を満たしていた。


 しかし街の賑わいとは裏腹に、キーラの体力はすでに限界に近づいていた。底をつきそうなエネルギーをどうにか絞り出して気力で補填しながら、引きずるような足取りで群衆の間を這うように歩いていた。


「あ……キ、キーラ……?」


 柔らかく控えめな声が雑踏の中から飛び込んできた。薄靄がかかったような思考が明瞭になり、キーラは足を止めた。


 振り返ると、重そうなかごを両手で持っているオードリーが、どこか不安そうに彼女を見ていた。


 オードリーの金色の目とキーラの栗色の目がぶつかった。キーラの心臓は喜びに一瞬震えたが、すぐさまいたたまれなくて目を少し伏せてそらせた。泥や血液で汚れた姿を見られるのが嫌だった。


 不安と驚愕に眉を詰めたオードリーが駆け寄って、距離を取ろうと足を引いたキーラの手を優しく握った。


「どうしたの? 膝にすり傷をつくって、羽も少しなくなっていて……ああ、頬にも血が……」オードリーの金色の目が揺れる。


「配達の帰りに火を吹く怪物にやられちゃって……」キーラは眉を下げて何でもないように笑ったが、オードリーの目から不安は消えなかった。


 オードリーはキーラの頬に優しく手を添えて、親指でそっと怪物の血を拭う。暖かい指先がなぞると頬はすっかり綺麗になった。繊細で肉の薄い手が離れていく。キーラは少し名残惜しかった。


 オードリーが触れてくれたところを彼女は感覚を再現するようになぞった。そのときようやく頬の血と泥か消えてなくなっていることに気づいた。


「ありがとう」


 感謝の言葉にオードリーは笑顔を見せたが、すぐにまた表情を曇らせた。


「本当は全部治してあげたいのだけど、傷やその羽はここでは治せないの」オードリーはいった。


「大丈夫だよ、そこまでしてくれなくても」キーラはオードリーの親切心に心が温まるのを感じ、口元を綻ばせながらいった。「機械羽は集荷局で直してくれるし、傷は放っておけばそのうち治るから」


 だから君が深刻そうな顔をする必要はないんだよ。キーラはオードリーにそう伝えたかったが、彼女は膝の傷に視線を落としたままだった。どうにか安心させたくてキーラがオードリーの手を握る力を強めると、オードリーは息を吹き返したように顔を上げた。


「ねえ、キーラ。今夜会いにきてくれる予定だったのでしょう?」


 オードリーの突然の問いにキーラは少し驚きながらも頷いた。この約束を原動力に今日は頑張ってきたのだ。オードリーはふわりと微笑んだ。


「せっかくここで会えたのだから、今から一緒に帰りましょう」


「でも、土とか汗ですごく汚れてるし……」


「大丈夫。お風呂も着替えの服も貸すし、制服もそのくらいならきっと魔法でどうにかできるから」


 オードリーの優しい言葉に本当に甘えていいのか迷っていると、オードリーはかごを足元で手放して握っていたキーラの手にもう片方の手を添えて柔らかく包み込み、2人の胸の間に持ち上げた。そして祈るように目を閉じてささやいた。


「私にブルーベリーパイのお礼をさせて」


 キーラは頷くしかなかった。



 クローズドのプレートがかかったドアの中へ、オードリーに続いてキーラは入った。書店の灯りは営業時から半分ほど消えていて、弱いオレンジ色の光が多種多様な書籍の背表紙を神秘的に照らしている。


「こっち」


 先導するオードリーが振り返って、店内をきょろきょろと見回すキーラを呼んだ。配達には何度も来ていたが、実は中に入るのは初めてだった。


 不規則に配置された背の高い本棚の間を進み店の奥まで行き着くと、ドアも間仕切りもない階段室が現れた。


「階段は平気?」オードリーは立ち止まっていった。


「ありがとう。大丈夫だよ」


「少し急だから気をつけてね」


 木製の階段が2人分の重さに軋む音を立てる。段差のわりに幅の狭い階段を上り切り、オードリーは正面のメインルームのドアを開けた。


「すぐに火を入れるね」


 暖炉前に並べた椅子をキーラにすすめたオードリーは、持っていたかごをそばに置いて暖炉の前に屈んだ。


 キーラは機械羽を下ろして床に置き、脱いだコートを小さく丸めて抱きかかえた。椅子には座らずに、オードリーの華奢な肩越しに暖炉を覗き込んだ。


 山の形に組んだ薪の上に白く輝く魔法陣が現れた。円盤は触れた薪に火をつけながらゆっくりと降りていく。全てに火がつくと、魔法陣はきらきらと粒子になって消えた。


 キーラは完全に魅入られていた。彼女も全く魔法が使えないわけではないが、それでも精緻な魔法はまるで生命すらたやすく扱う天使の奇跡のようだ。美しく、刹那的で、どこか残酷だった。


「お風呂も温めに行くけど、それも見る?」オードリーは立ち上がっていった。


 金色の目に見つめられ、キーラの意識は現実に戻された。


「ごめん、あまりに綺麗だったからつい」キーラは行動を咎められた気がして赤面した。


「謝らないで」オードリーはくすりと笑った。「今日のあなたは疲れて弱っているみたい。いつもみたいに明るく快活な配達士さんに会いたいな」


 キーラが可能な限り元気を込めて、しかし弱々しく口角に力を入れた。オードリーは満足げに頷いて、


「お風呂を温めている間に紅茶を入れるね。きっと元気になるよ」

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