第9話 彼に罪はなくても

 キーラの直感は正しかった。


 道沿いに整列するブナの木や空き地にここぞとばかりに密生するハルジオンに囲まれた轍の道に、引きずった左足で新たな跡を加えながら、キーラはほとんど盲目的な信念に従って進み続けていた。何も考えずに、というか何かを考えられるほどうまく思考を回せずにただひたすら足を前に運び続け、喉が渇いていることをようやく自覚したころ、乾いた黄色い土は灰色の石畳になり、瑞々しい緑の紅葉樹は漆喰塗りの一軒家に様相を変えていた。


 見渡した石畳の町はグレンヴィル街やバーナード街とは違い、絵に描いたような田舎町だった。


 キーラがたどり着いたのは、町の憩いの場としての機能を十分に備えた広場だった。シンボリックな噴水を中心に、どれも似たような漆喰塗りの一軒家がそれぞれやや隙間を開けて同心円状に並んでいる。


 散歩日和な昼下がりだというのにほとんど人がいない。陽光を浴びている数少ない人物は、石造りの小さな噴水に腰掛けて気の抜けた様子でタバコを吸う茶髪を丁寧に撫でつけた下僕風の若い男性と、明確な目的があるらしくしっかりした足取りでどこかに向かう美しい赤毛をひとつにまとめた黒いスカートの女性だけだった。


 落ちた噴水の滴がはねて瞬く星のようにきらめいた。それを見た途端、キーラは全身の力が抜けて疲労感がどっと溢れた。膝から崩れそうだった。


 足が痛むのも忘れて噴水に急いだ。へりの手前に膝をつき、両手で噴水の水をすくって口に流し入れた。口内がひんやりと潤って心地が良いのもつかの間、舌の上を砂粒がざらりと通過して背筋がぞわりと粟立った。キーラは反射的に自身の隣にその水を吐き出した。


 喉奥に絡まった水に咳き込んでいると、ふー、と長く細い息を吐き出す音が頭上から聞こえた。キーラは生理的な涙を目に溜めながら見上げた。下僕風の青年が冷ややかな青い目で彼女を見下ろしていた。右手に挟んでいるタバコが煙を立ち昇らせていた。


「す……すみません……」キーラは慌ててコートの袖口で口元を拭った。


 しかし彼女の顔は綺麗にはならなかった。頬にはまだ血と泥が残っていたし、コートに付いていた土埃が吐き出した水のせいで口元に移ったせいだ。


「大丈夫か?」青年が口を開いた。低くて、吐き捨てるような話し方に似合わない上品な響きのある声だった。


「ええ……まあ……」キーラは呼吸を整えながらいった。


「そうは見えないな。何があった?」


「……森の方の空で怪物に遭って……羽、溶かされちゃったから、歩いて帰ろうと……」


 青年はぐっと前に屈んで、キーラの焼けただれた機械羽を見た。ああ、と納得したように頷いてタバコを咥えた。


「どこまで歩くつもりだ?」煙を吐きながら青年はいった。


「中央集荷局のあたりまで……でも道がよくわからなくて……」


「そこだったら……」青年は気だるそうに上半身をひねり、タバコを挟んだ手で噴水の向こうを指した。「あの赤い花の鉢植えがある家の横の通りをまっすぐ行くと、道標が出ていたはずだ。そいつに従って行けば日が沈むまでには着くだろう」


「あ……ありがとうございます……」


 少し休んで落ち着きを取り戻したキーラは大きく息を吐き、へりに手をついてゆっくりと立ち上がった。前を向こうと顔を上げると、頭が重くぐらりと回る感覚がした。


「なあ、本当に歩いて行くのか?」


「まあ、それしか方法がないから」


「羽を直せばいいだろう」青年は事もなげにいった。


 その言葉や態度からキーラは状況を理解した。彼はきっと同じ側に立ってはいない。


「私は……」キーラは少し怖くなって言い淀んだ。「……魔術師じゃ、ないから」


 青年が一瞬、じっと見つめていたって気づけないほど一瞬だけ目を見開いたのを、キーラは見逃さなかった。


 予想通りの反応だった。おそらく彼は知識として半魔術師や非魔術師の存在を知ってはいても、その存在はほとんどおとぎ話も同然だったのだろう。青年を見てキーラはそう想像したし、実際ほとんど想像の通りだった。青年が仕えている屋敷の住人や使用人は例外なく魔術師であり、彼の親族もそうだった。


 それから青年は複雑な機構を点検するようにキーラを爪先から頭まで眺め、どうとでも取れるような笑みを口元に浮かべた。キーラはやや被害妄想気味に冷笑だと受け取った。自身の呼吸が浅くなるのを自覚した。


「なるほど」青年はそういってタバコを地面に落とした。綺麗に磨かれた黒の革靴で踏んで火を消した。「じゃあ、まあ……頑張って。幸運を」


 ゆったりと立ち上がって歩き去る青年の黒い背中に、キーラの血液は冷たくなり鼓動は速く激しくなった。


 オードリーやトーマスに出会ってキーラはすっかり忘れていた。全ての魔術師がそれ以外の人々を同等だとみなしているわけではないのだ。


 暴れる心臓を押さえつけようと胸に手を当てる。目を閉じて、深い深い深呼吸を意識的にゆっくりと繰り返した。


 魔術が使えない、あるいは使えても十分ではないことは生物的に劣ることと同列ではないと科学的に証明されていてる。しかし、識閾下で受け継がれてどこまでも広がっていく文化的遺伝は、努力しなければその存在にさえ気づけない。


 そして、無垢なまま育った魔術師は初めて見る同族でない人々に対して、憐れみや軽蔑が奥の奥でうごめいている瞳を自覚なく、悪意なく向ける。例えばあの下僕の青年のように。


 キーラはそっとまぶたを開けた。傾きはじめた太陽の輝きが壁や石畳に反射して、彼女に真っ白な世界を見せた。少しずつ光が落ち着いて、視界が良好になった。


 優しい風が町を通り抜けた。汗が乾いた肌の上を爽やかに滑った。それがあまりに心象とアンバランスで、キーラは息をついた。


 噴水の周りをぐるりとまわって、赤い花の鉢植えがある家の横の通りに入った。

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