第8話 昼下がりの魔獣
配達物を持たずに明るく澄んだ空を飛ぶのはなんと気持ちがいいことだろう!
キーラは薄い膜のような巻層雲の下を漂うように飛んでいた。いつも上機嫌なときにやるようなスピードは出さない。少しでも長く空にいたくてわざとゆっくり飛んでいた。
風を受けて、ヘルメットに押さえつけられている、癖のあるセミショートの金髪が後ろに流れる。軽く指ですくと、汗や土埃で重くなっている気がした。向こうに着いたらオードリーに会う前に冷水風呂に行こう、とキーラは決めた。
彼女の影の下を、ダークブラウンの大きな翼を広げたフクロウが追い抜いていった。キーラは首を傾げた。昼下がりにフクロウが空を飛ぶのを彼女は見たことがなかったのだ。
滑るように速く飛び去って小さくなっていくフクロウを、空の果てでただの点になるまで目で追った。不思議だとは思ったが、何しろここは知らない区域だ。知らない現象が起きたとしてもおかしくはないだろう、とキーラは昼下がりのフクロウを消化した。
飛行に集中しようと前を向いたと同時、大きな黒い影が視界の下の方に現れた。ざっと10羽はいるであろうフクロウの群れが、彼女の下を三角の隊列を組んで通り過ぎた。
さすがにこれは普通ではない。何かが起きている。そう直感したキーラは前進するのをやめ、ぐるりと旋回して来た方を向いた。
「…………っ!」キーラは息を詰めて両目を見開き、全身を硬直させた。
森の奥から、フクロウとは比較するのも馬鹿馬鹿しいほど巨大な怪物が正面から迫ってきていた。
不気味な海賊船の帆のように大きく広がる翼は羽ではなく、赤く薄い膜。それを支えるマストのような細く黒い骨。その翼に不釣り合いなネズミのように丸い胴体は黒く硬そうな毛で覆われている。
燃えるように赤いつぶらな目がキーラの栗色の目を捕らえると、大きく羽ばたいて上昇し、彼女の頭上に影を落とした。キーラが見上げると、広げた翼が眩むような陽光に透けて、膜に骨や毛細血管がグロテスクに浮かんでいる。
瞬間、怪物はキーラを目掛けて急降下してきた。キーラは反射的に後退りながら護身用拳銃を抜き、それの右目に向かって発砲した。
弾は見事に命中し、暗褐色の鮮血が飛び散った。空中に飛散した液体が落ちていき、その一部がキーラのゴーグルや頬を汚した。
怪物は高音と低音が混ざった悲痛な咆哮をあげながら、空中でやみくもに身じろいだ。
今のうちに逃げようと銃を納めて、キーラは方向転換して帰路に復帰しようとした。怪物に背を向けて羽ばたいたそのとき、先ほどまでとは違う鋭く攻撃的な怪物の声が空に響いた。
驚いて振り返ると、赤く熱い炎が怪物の喉から吐き出された。キーラは正面に向き直って加速度をつけようともう一度大きく羽ばたいた。
しかし、キーラが逃げるよりも追いかけてくる炎の方が速かった。追いついた炎が機械羽の左翼の先端に触れて、その複雑な金属機構をどろどろに溶かした。
翼がバランスを欠いてキーラは体勢を崩した。一縷の望みを賭けて羽ばたかせてみるも、うまく上昇できずに堕ちていく。
もうだめだ。キーラはあがくのをやめて、顔と内臓を守るために受け身の姿勢をとった。
本日2度目の墜落。今度は助けてくれる人はいなかった。
▽
あまりの衝撃に、キーラはすぐには動けなかった。
雲よりも少し低いだけの高度から落ちたのだ。地面が柔らかい土であるだけまだよかったのかもしれない。
着地時に鼻が潰れたり肋骨が折れて内臓を引っ掻きまわすのを防ぐために身体を支えていた腕から力が抜け、汗ばんだ頬やだぶついた制服に包まれた胸元が土に着いた。寝転がってしまえば気分はずいぶんと落ち着いた。背の低い雑草が陣地を取り合うように生えていて、ところどころに白い小さな花が咲いていた。息を吸うと、湿っぽくて青臭い匂いがした。
体のあちこちに痛みは残るもののすっかり気力を取り戻したキーラは、立ち上がってヘルメットとゴーグルを外して半壊した機械羽をたたんだ。頬を手の甲でこすってコートやショートパンツの下でむき出しになっている膝についた土を払い落とし、きょろきょろと周囲を見渡した。
少し離れたところに赤レンガの家がぽつんと建っていた。キーラと家の間に生垣や柵はなく、同じ緑と白の生命力あふれる絨毯が広がっている。どうやら他人の庭に入り込んでしまっていたらしい。
赤レンガの家の住人に見つかる前にここを出なければ。キーラはいくつもの轍が重なって作り上げた道に向かって足を動かした。着地したときに擦りむいた膝が地面から伝わる衝撃に鋭く痛んで、左脚を引きずった。
慎重に、しかし急いで芝生を横切って歴史につくられた土の道を歩き出した。正しい道であるかはわからないが、森に背を向けて進むことにした。そうすればいずれどこかの街に辿り着けるだろう。道中、人間とすれ違えたら道を尋ねて、運良く心優しい魔術師に逢えたら羽の修理を――
道沿いで誰の手を加えられることもなく自由にいきいきと育ち続けている樹々の影を踏みながら、キーラはひたすらに自然にあふれた道を歩き続けた。
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