第5話 半魔術師の夜明け前、魔術師の朝

 キーラが集荷局の裏に到着したとき、エマはすでに2本目のタバコを半分ほどのサイズに仕上げていた。


「遅い」エマはイラついた様子でタバコを咥えたままいった。


「まだ夜明け前の範疇だよ」キーラはゴーグルを外しながらいった。


「あたしより後から来たんだ。十分に遅い」


 不遜な態度で理不尽をいうエマをキーラはじっとりと睨んだ。しかしそれにはなんの効果もないと諦めて視線を落とすと、視界の端に入り込んだ無機質な黒い物質の存在に初めて気づいた。


「それが例の配達物?」キーラはエマの脚元に転がっている大全を2冊積み重ねたような木箱を指差した。


 真っ黒で寡黙で有能そうな木箱は、ダークブラウンの太い革のベルトと手を組んで中身をかっちりと守っている。


「ああ、そうだ」エマは木箱を靴の先でこつんと軽く蹴った。「あんたはこれをセントフォードの外れにある森の近くにポツンと建っているバンガローに届ける。場所はわかるかい?」


「森の場所なら」


「じゃあ問題ない。そこにはそのバンガロー以外に建造物はないからね」


 エマは木箱を拾い上げ、キーラに押し付けるように手渡した。思いの外軽い木箱にキーラは拍子抜けした。今のところ、妙な音も振動もない。


「向きを変えるな。バッグにも入れず、手で、そのまま、運んでくれ」


「両手が使えないなんて!」キーラは咄嗟に腰に下げた護身用拳銃に触れた。「なにか、もしくは誰かに襲われたりしない?」


「さあ、あたしは行ったことないからわからんね」エマは他人事だと決め込んで、「万が一なにかしらに襲われたら、その羽で上手いことやるんだ。とにかく荷物を無傷で運ぶんだ」



 カーテンを穏やかな朝日が後ろから照らし、深いワインレッドが鮮やかに光を透かす。


 オードリーはすでにゆるりと眠気に足を取られそうになりながらも目を覚ましていた。寝室着のボタンを外して床に落とし、白いブラウスに袖を通し黒いサロペットスカートの皺を軽く叩いて伸ばした。


 部屋を整えてカーテンを開ける。光に弱い金色の目が細められる。


 朝が来た。


 部屋を出て階段を降り、階下にある書店に向かった。店内は薄暗いが、書籍が日焼けするのを防ぐためにオードリーはカーテンを全開にはしない。その代わりに、壁や柱に取り付けてある空のランタンにやさしいオレンジの光を入れた。いつものように、魔法で。


 オードリーは魔術師の家系の出だった。父親から受け継いだ魔術師としての勘の良さと、母親譲りの知的好奇心とで彼女は学生時代には優秀な魔術師であった。そんな彼女が魔術師の専売的な職業――例えば、魔獣捕縛師や魔術痕跡捜査員など――を選ばなかったのは、魔術師特有の競争社会に見切りをつけたためだった。


 静かで穏やかな空気がゆったりと流れる開店前の書店を、オードリーは魔法と埃払いで眠りから覚ます。店の奥から、迷路を作るように設置した背の高い本棚の間を抜けてダークグリーンの扉の前にまでたどり着く。ふたつの鍵を開けてくすんだ金のノブを回し引き、オードリーは扉の外に出た。


 冷たく乾燥したいかにも朝めいた微風が優しく頬を打つ。オードリーは扉に引っ掛けたプレートを裏返して『開店』を表にした。店内に戻る前に何か届いてないか確認しようと郵便受けを開けると、定期購読している朝刊と折りたたまれた羊皮紙の切れ端が入っていた。


 なんだろう、と朝刊を小脇に抱えて開け放った扉にもたれて羊皮紙を開いた。


 そこには黒いインクを使い、かなり崩れてこぢんまりとしたカッパープレート体でこう書かれていた。


『今夜配達が終わったら会いに行くから待ってて』


 もう一度紙を折ると、表にキーラの署名が中身と同じ字体で書かれていた。


 オードリーは人知れず、彼女自身も知らないうちに微笑んでいた。


 彼女はその羊皮紙を胸元に大切に抱え、カウンター奥の事務室に入り机の上、異国のファンタジー小説の下にどこかへ飛んでいかないように置いた。



 黒い木箱を両手で抱え、キーラは配達担当区域外の見慣れない街の上空を飛んでいた。


 穏やかな空だ。


 まだ他の配達士とは一度も行き合っていない。鳥とはたまに遭遇するものの、彼らは不必要に話しかけてこないし、ぶつかりそうになってもたいていの場合は向こうが先に見つけて避けてくれる。


 例外的なのはオオタカで、彼らは道を開けよとばかりに正面から突っ込んでくる。キーラも負けじと睨み返すが、空の覇者は決して譲らない。キーラもその度にぎりぎりまで粘ってみせ、オオタカのその黒く鋭いくちばしを掠める距離で急上昇した。


 お互いに冗談半分だと理解しているからこそ可能な、空の危険な悪ふざけだ。しかし半分は本気。うまくやることで空の覇者に認めてもらい、どこの区域でも安全に配達することができるのだ。そう研修時代に先輩配達士に教わって以来、キーラはオオタカに遭う度にこの儀式を繰り返していた。冗談好きな先輩は研修が終わってもそれが嘘だと教えなかった。


 たった一度のオオタカとの邂逅を除けば上昇も下降も旋回もすることなく、類を見ないほどの安全飛行でサンドフォードの上空に滑り込んだ。


 サンドフォードは、自然豊かで隙あらば穀物や野菜が植えられている非常に静かな小さい村だ。旅行ガイドに掲載されている程度の知識しかないキーラは、青々と輝いて微風に波打つトウモロコシ畑に思わず見惚れた。


 トウモロコシ畑に心を奪われながらも、前方に広がる森から注意は逸らさない。ふっと広く眼下を見渡すと、青い畑の遠く向こう、点在していた家も見られなくなった森のふもとに赤い屋根の小さな木造の小屋が見えた。


 ようやく着いた。


 安堵のため息をつきながら、キーラはゆっくりとそのバンガローに向かって降下した。

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