第3話 ちゃんと、はじめまして
この土地に慣れ親しんだ人でもあまり知らないような細道を複雑に曲がり、キーラが知り得る限りの最短ルートでバーナード街にたどり着いた。
同じ地域にあってもグレンヴィル街とはまるで様相が違う。グレンヴィル街が賑やかで楽しいスズメだとするなら、バーナード街は落ち着いていて文化的なフクロウだ。
配達士として仕事をはじめたばかりのころ、土地柄、他の街に比べて魔術師が多く住むバーナード街がキーラはあまり好きになれなかった。
歴史に疎い彼女だが、その昔に魔術師と非魔術師の間で争いが起こり、少なくとも書類上では平和が約束されたことくらいは知っていた。そして、その紙切れにはせいぜい校則程度の効力しかなく、時代とともに埋まりつつあるが、それでもいまだに両者の間には埋まりきらない溝があることも知っていた。表立ってではないものの心底では互いに恐れ、見下しあっていることをキーラは肌で感じていた。
魔術師と非魔術師の混血であるキーラにとって、金を落とす者なら誰でも歓迎するグレンヴィル街と違い、歴史が醸成してきた特有の空気が地から這い上がりまとわりついてくるバーナード街はどうにも場違いな気がしてならなかった。
外見からの判別は不可能であると理解しながらも、非魔術師の遺伝子がバーナード街の偏見に満ちた魔術師を刺激するのではないかと恐れていた。
恐れながらも、行きたいと思える場所、会いたいと願う人の存在がキーラをサボタージュの誘惑からどうにか引き留めていた。
バーナード街の本屋は街の東、たばこ屋と探偵事務所の間でひっそりと主張していた。灰色の石が造る複雑なモザイクに、ダークグリーンのところどころ年月に削られた扉と窓枠がその内側に眠る繊細な宝物を守るようにはめ込まれている。
その窓の向こうに、やはり今日も積み上がった本の奥で読書をしている彼女の影が見える。
捉えたキーラのヘーゼルの眼が今日ばかりは不安に揺れる。プレゼントラッピングの袋を抱える腕に力が込められる。書店の向かいにある喫茶店の前で立ち止まって、キーラは少しくしゃりと乱れた心で普段通りの生活を遂行している彼女を見つめた。
やることはいつもの業務と変わらないというのに、渡すものが配達物からプレゼントに変わっただけで、キーラは奇妙な緊張感に捕らわれていた。
それでも、わざわざブルーベリーパイを購入して配達物もないのにここまできたのだ。今さら何もせずに2切れのパイを抱えたまま業務に戻るつもりなどなかった。
キーラは大きくため息をついて、肺を新しい空気で満たした。勇気を充分に装填して本屋に踏み出す。ギシギシと関節の悲鳴が聞こえそうなほどぎこちない動きで。
いつもより少し時間がかかりながらも、キーラは本屋の窓辺にたどり着いた。キーラが陽光を遮ってテーブルに短い影を落とすが、少女は本に夢中で気づかない。
キーラはブルーベリーパイの入った袋を後ろ手に隠し、少し屈んでガラス窓をノックした。
少女は机の上に置いた金のブックエンドを、白く繊細な指が拾ってするりと本に挟んだ。少女が顔を上げる。ぱつんと切り揃えられた赤髪の下で涼しげな金色の眼が少し丸みを帯びる。そしてガラス越しに瞳を合わせると、少女は柔らかく細めて微笑んで本を閉じひらりと席を離れた。
窓の向こうには誰もいなくなり少女を追って出入り口に向かおうとしたとき、キーラはガラスに反射する自分の表情がややこわばっていることに気がついた。自然にしているつもりだった笑顔が不自然で、無理やりにぃっと口を横に大きく広げた。大袈裟な表情が間抜けに見えて、キーラの緊張はわずかに解けた。
ガラスから離れて、少女の後を追って出入り口に向かった。
キーラが『開店中』の楕円の木製プレートがかかったパイン材の扉の前に着いてちょうど、内側から扉が開けられた。
「こんにちは、配達士さん」落ち着いて控えめな少女の声がいった。細身の体躯に編み目の大きいチャコールグレーのカーディガンが実際のサイズ以上に大きく見える。
「こんにちは、本屋さん」キーラは体内を血液が駆け巡るの感じた。ぐっと握っていたプレゼントのパイを少女との間に出す。「お届け物です」
「ありがとう」
荷を受け取り、少女は差出人を確認する。と、形の良い細い眉を寄せた。
「キーラ……ベイル……?」
首を捻って未知の文字列を呟く少女に、キーラは少し慌てていった。
「そ、それ、実は私からなんです。キーラ・ベイルって私の名前。それで……えっと、これは君へのプレゼント」
はにかみながらはちみつ色の癖毛を耳にかけるキーラに、少女は小首を傾げて愛想良く微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、どうしてプレゼント? 私、さっきまであなたの名前すら知らなかったのに……」
「それは……」キーラは高速で考えを巡らせた。どこからどんな風に話せば伝わるか、話を組み立てていらない部分は省いた。「感謝の気持ちですよ。しょっちゅう利用してくれるので」結局すべて省いて、ひとつの単純な嘘で済ませた。
職業的で無難な笑顔を浮かべたキーラに、少女は彼女自身を納得させるように頷いた。
「なるほど。ではありがたくいただきますね、ベイルさん」
「よければキーラと」嘘を突き通して安心したキーラは普段の明るい調子を取り戻していった。
「キーラさん。私はオードリー・ワトソン」
「オードリーと呼んでも?」
「もちろん」オードリーは不意を突かれたように吹き出した。「ねえ、またこうして配達がない日も立ち寄ってくれる? キーラさんのこと、もっと知りたいの」
キーラにとってそれは願ったり叶ったりな申し出だった。キーラは感情のままにはしゃぎたい気持ちを制御して、余裕のある態度をとってみせた。
「ぜひそうさせてもらうよ。そのときもきっとプレゼントを用意するから、楽しみにしてて」
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