第2話 口実をつくる

 着陸したグレンヴィル街は、相変わらず焼けた小麦粉の素朴な匂いに包まれていた。土地柄、小麦が比較的安価で仕入れやすいこともあり、この辺りにはパンや焼き菓子を扱う店がそれぞれの個性を競い合って乱立している。


 キーラは買い食いしたい衝動を腹の中に抑え込みながら、配達業務を粛々とこなす。配達物に記載された住所と扉に刻まれたアドレスとを照合してポストする。作業自体は単純そのものだが、これが意外と集中力を消耗する。


 小包をポストにねじ込み、書簡を1束メッセンジャーバッグの隅に残したところで、キーラは一度作業を切り上げて休憩を取ることにした。


 ぐぐっと両腕を高く上げて伸びをしたが、バッグの肩紐にかけたヘルメットが重いせいであまりうまくいかなかった。さて何を食べようか、と周囲の店を高さ不揃いに腕を上げたまま半身を右へ左へひねってガラス越しに物色していると、カフェの窓際の席で読書に没頭している女性の姿が目に留まった。


 物語に心酔するように微笑みながらページをめくるその姿に、ふとバーナード街の本屋の少女を思い出した。


 キーラは配達士としての勤務初日に壊れてしまった羽を直してもらったその日から、その少女のことが気になって仕方がなかった。


 本屋の前を通ると、ほとんどいつも少女は遮光カーテンが半分引かれた窓辺で本を読んでいる。窓を軽くノックすると、顔を上げて栞を挟みながらはにかんで、本をガラス細工でも扱うように優しく置いて窓辺から姿を消すのだ。キーラはいまだに名前すら知らない(なにしろ、宛名は常に店の名前になっているのだ)彼女とのその瞬間が幸せで、飛翔以外の唯一の楽しみだ。


 日々の幸せなルーティンを思い出したが、それと同時に今日は珍しく彼女へ配達すべき書簡や荷がないことも思い出した。


 力を抜いて腕を振り下ろし、ゆっくりと通りを歩きながら新しく思考の隅の方で発生してしまった薄靄について考えた。少しのあいだは誘惑的な小麦については忘れることにした。


 頭の中、灰色のレンガが積み上がった狭い部屋で、キーラは木を貼り合わせた作業机を挟んで恰幅のいい白髪の紳士と対峙している。配達士登用試験で見た光景だ。


「配達物という唯一の接点がないいま、妙な警戒心を与えることなくバーナード街の本屋に会いに行くにはどうすべきかな?」教官は問いかけた。


 少し悩みながらキーラは答えた。


「本屋の客として入店し、彼女におすすめの本を紹介してもらう」


 ……いや、これは違うな、とキーラはデスクの上で手を組みわざとらしく目を細めて笑顔を作る口頭試験の教官のイメージを、頭を左右に振ってかき消す。


 本に関する話題を持ちかければ、彼女が相好を崩して楽しげな声色で饒舌に語りかけてくれることは、容易く想像できる。しかし、それは本に興味を持つ同朋に向けられる笑顔であり、キーラに向けられているのではない。キーラはそう考えたし、その考えが自分でも気に入らなかった。


 それに、それ以前にキーラは本、というかそもそも文字を読むことが苦手だった。


 ではこういうのはどうだろう、とキーラは一度消してしまった教官を呼び戻して答え直す。


 配達物がないのであれば、作ればいい。


 つまり、キーラが彼女に宛てて配達物を購入して配達するのだ。そうすれば、きっといつもと同じように、荷を運んできたキーラに向けて「ありがとう」と笑いかけてくれるだろう。間違っても、彼女は届いた荷物に対して笑いかけるような人ではないはずだ。


 そうだ、これこそがこの状況で考えられる最適解だ、とキーラはひとり頷いた。キーラは彼女の笑顔を見ることができて幸せで、本は読みもしないキーラではなくふさわしい持ち主の手に渡る機会が守られた。


 教官も今度は納得ずくの笑顔で頷いた。


 そうと決まれば本屋宛ての配達物をどこかで手配しなければならない。どうせなら少し特別で、あっと驚かせられるものがいいだろう。


 ふさわしい店はないかとキーラは周囲を見渡した。しかし、識閾下で当然のように想像していた景色とは違って困惑する。日に焼けて色褪せたオフホワイトのオーニングや、鉄製の丸い看板に印字された店名はどれも見覚えがない。そういえば香ばしい小麦の匂いがずいぶんと薄く遠い。100歩ほど先には広く清潔な交差点が見え、その向こうの見慣れない住宅街のバルコニーでネイビーの寝室着の青年がバイオリンを弾いている。


 どうやら脳内口頭試験を受けているうちにグレンヴィル街の端まで歩いてきてしまっていたらしい。


 キーラは回れ右をして、来たかもしれない道を駆け足で引き返した。


 風に解けた柔らかい弦のメロディが微かにキーラの耳に届いた。



 キーラがその焼き菓子店に入ったのは運命的な引力のせいではなく、空腹と糖分不足に耐えかねてのことだった。その状況、瞬間で直感的に判断して行動してきたキーラが行動する前に熟考するためには、普段は使わない回路にエネルギーを流す必要があった。そのためにはエネルギーが多量に要求され――要するに、可及的速やかに甘い物を口にしたかった。


 ランチタイムのピークを過ぎて、店内はずいぶんと落ち着いている。食事になりそうないくつかの商品はすでに売り切れていて、空のトレイが暖かな人の痕跡を証明していた。


 しかし、まだドーナツやアップルパイなどハイカロリーなスイーツが、誘惑的な甘ったるい匂いを発散しながら木組みの小屋を彩っている。


 キーラは背に手を回し組んで甘い栗色の眼に鋭い真剣な光を灯し、カウンター下のケースや壁際の棚に陳列されている色や形が絶妙に不揃いなパイやタルトを眺めながら、その前をゆっくりと端から端まで歩いた。カウンターの向かって左の方、下段の2切れ分欠けたブルーベリーパイに目がとまった。こんがりと焼けたパイ生地の網目からのぞく赤黒くてらてらと光るブルーベリージャムに、キーラの直感が飛び跳ねた。本屋の彼女を喜ばせて驚かせることができるのはきっとこれだ、と確信した。


 カウンターの後ろに立ち、全方向ににこにこ愛想を振り撒く店員にキーラは笑顔を返す。敵意のない無害な人間だと証明するためだったが、意図は伝わらずに店員は首を傾げた。


 キーラは伝わっていないことに気づいたが、気にしないことにした。


「ブルーベリーパイを2切れ」キーラはいった。「そのうちひとつは配達用に」


「集荷局へは本日の閉店後に持ち込みますので、場所にもよりますがお届け日は最短で明日です。配達先の住所はどちらで?」店員はエプロンのポケットからメモとペンを取り出した。


「アドレスはなくてもいい」


「でも、それでは届きませんよ? このままではここに戻ってきてしまいます」


「私が直接配達するの。ほら」キーラは左の上腕にコートの上からつけた配達士の腕章に触れて示した。


「ああ」と店員は納得したようにつぶやいて、「それでしたら必要なのは配達用ではなくプレゼント用ですね。その方が少しですが安くなりますし」


「…………プレゼント……」キーラは思いもよらなかったその言葉を、馴染ませるように音にした。


「だってそうでしょう? あなたが買って、あなたが届ける。ならこれは紛れもなくプレゼントですよ」


「……なるほど」


 話しながらも手際よく進めていたラッピング作業を終え、店員は口頭で代金を請求した。キーラはジャケットの内ポケットから紙幣を取り出して置き、プレゼントラッピングと紙袋のパイを抱えて、非現実的でふわふわと浮くような足取りで店を出た。プレゼントという言葉がふらふらと頭の中をうろついている。


 これが配達物でなくプレゼントだと告げたとして、本屋は同じように笑うだろうか?


 キーラはパイの入った袋を胸元に抱きしめた。

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