第33話 天の意志

 若干の不服さを腹に据えながらも、静麗ジンリーの経過観察を終え。発つ予定の時期を尋ねた梓磊ズーレイが次に向かったのは、弟颯雨ソンユの元だ。

 今回の騒動の後処理のやり方について、自身や女官たちから手ほどきを受けながら取り組んでいる彼は、未だあれから静麗に会えていないらしい。


「…………怖くなったんだ。いざとなったら」


 筆を手に取りながら呟いた弟の声は、随分と気弱だった。真面目に治世に取り組みはじめたことで、周囲は少しずつあれからも変わってきたというのに、ここに来て彼の勇気は後退しはじめたらしい。


「私は会いに行きたいと口にしたが、彼女は会いたいとは言わなかった。私だけが望んでいるのなら、くぐった先でやるべきことが違うのだから、世界が違うのだからと拒まれたら……」

「当人に確認すればいいだろう」

「それが出来たら……!」


 桌子ツクエを思い切り叩いて立ち上がる。苦労はしないと言いたいのだろう。──気持ちがわからないとは言わないが、この調子で数週間過ごしている様子を見せられる側としては文句の一つも告げたいものだ。

 これ見よがしに息を吐き出せば、弟の眉間のシワが一気に狭まった。


「なんだ、兄上としてはむしろ行かれる方が困るだろうに。前はあれほどに復讐に向かうことを厭っていただろう」

「そうだな。……あれがお前自身が長兄を愛していて、故の復讐だったら兎も角。ただの自己承認の手段にするには不確かすぎる。そんなものを私が承認できるわけもない」

「……もうそれは考えていない」

「知っているさ。成龍となった姿を見たのだから」

「だろう。これで問題なく譲位も行える。兄上にとっては願ったり叶ったりのはずだ」


 私のことなど放っておいてくれと外方そっぽを向く弟にかける言葉をしばし悩む。だが元より梓磊は口が上手い方ではなかった。だから告げるべきことを唐突に口にする。



「颯雨、先に言っておくが私はまだお前に位を譲るつもりはない」

「…………はっ!?」


 これまでの流れを両断する言葉に颯雨は大きく肩を跳ねさせた。


 天龍として成ったのは誰の目にも明らかな状態で位を明け渡さない選択肢があるのなら、葛藤など元よりしていないのだ。

 戸惑いと共に、呼吸が浅くなるのを颯雨は自覚する。位を譲らないという宣言は彼に幼き雛の殻に閉じこもったときのことを思い出させるが、それを察知した梓磊は首を横に振った。



「勘違いをするな。無論準備が整った暁にはお前に冠を受け渡すつもりだ。だが、今のお前では圧倒的に他者を使い国を正すための知識が足りない。それは自分でも自覚しているだろう?」

「……分かってる」

「もっと背筋を正せ。雛から成龍となっても変わらぬな、お前は」

「……梓磊兄上相手だからだ」


 もう一柱の兄とは違う。彼と義姉上相手ならば、どれだけ情けない姿を見せたっていいと思っていた。だって雛であり続けた千年間も、彼らは自分を見捨てはしなかったから。


「信頼と思えば悪くない。だが……だからこそ、今のお前に責任を全て押し付けるのは。そう思わないか?」

「…………?」


 兄の含むような物言いと、こちらを射抜くように見つめてくる瞳。これは流石に普通ではないと颯雨ソンユが疑問に思うのは自然だった。いつだって上に立つもの、導くものとして立っていた彼が、自分に何かを言わせようとしている。


「……そう、だな? 兄上の治世が乱れているならともかく、今いきなり投げ出されるのは、こま、る?」

「曖昧な物言いをしおって……まあいい。天の力を持つお前がそう口にするのなら、復天の禊を行う理由となる」

「復天の禊?」


 耳馴染みのない単語だと颯雨はますます首を傾げた。

 知らないのも無理はないと前置きを置いてから、梓磊は傍においていた本を手に取り開いた。


「今よりも数代前……数万年以上前になるか。当時の天龍が自らの父を関白と奉じ、世を治めるために行なった禊だ。……お前に位を譲る、それは天の意志だ。だとしても天の意思と同じものであるお前が望むのなら、百年の区切りを間に設け、その期間は私が引き続き御代を治めることが出来る」

「…………百年」


 区切りの良い数字に颯雨は人間の寿命の話を思い出す。およそ百年も生きられないと、あの少女は口にしていた。


「猶予期間といえばより解り易いか。世を乱さぬべく必要な知識を詰めこませるのだからこれまで以上に忙しくはなるが……それでも暫くは身が空く余裕がある」

「なんで、だ」

「何だ?」


 舌で唇を湿らせてから、掠れた声で颯雨は問いに答える。


「兄上は、反対すると思っていた」

「反対してほしかったか? 反対して、言い訳にさせてもらいたかったのか?」

「……そう、かもしれない。駄目だと言われたのなら仕方がないと、諦めがつくから」

「臆病だな。……そういうところは、私に似ている」

「梓磊兄上に? まさか」


 笑おうとして口元がうまく吊り上がらなかった颯雨に、梓磊は短く首を横に振った。


「事実だ。言い訳があるというのは…‥楽なことだからな。それを他所に押し付けられるのならば、尚更だ」

「……、」


 颯雨ソンユは以前の兄とのやり取りを思い出す。運命と呼ばれるものに対しての荒れ狂い叩きつけるほどの感情を秘めた言葉。

 それを重ねてくることに、もしかしてと疑問があぶくのように湧きあがる。けれども、これを割るのは今ではない。彼女の前でなければ駄目なのだと、自分の中のまだ幼い蛟が鳴いた。


「…………、ありがとう。兄上、静麗ジンリーはどこにいるか知っているか?」

「治療の経過観察を兼ねて侍医室に滞在をさせている。……もっとも、彼女は近いうちにここを経つつもりだったぞ」


 大きな音が部屋に響く。立ち上がっていた状態から慌てて駆け出そうとした颯雨が、盛大に椅子に蹴つまずいた音だった。痛みに顔を歪めながらも、勢いに任せて、転がるように駆け出していく。


「……全く。吹っ切れたかと思えばこれか」


 一人になった部屋。護衛の兵たちが外で戸惑う音が角に聞こえてくる中でつぶやいた。

 あの勢い任せに動くところは自分とは全く似ていない。……が、だからこそ良いのだろう。


「あれの娘ということだけが心配の種ではあるが……それでも、運命の萌芽に祝福を」


 希くば運命の帰結が望ましいことにならんことを。転がり落ちた筆を拾い上げて梓磊は呟いた。

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