第34話 覆水

静麗ジンリー、そういえばお前の帰りはいつ頃になるんだ?」

「依頼も終わったしそろそろ帰るつもりだったけ、ど……。一寸ちょっと待ってちょうだい、まさか」

「ああ、なら心配はなさそうだな。いやうっかり、西の間が気がついたら手前のものしか取り出せないくらいに物の山になってしまってな。どこから手をつければいいか分からなくなっていたんだ。はっはっはっ」

「〜〜〜〜!! ああもう。やることと挨拶をすませたらさっさと帰るから! それ以上物を引っ張り出したり動かすんじゃないわよ!!」


 龍帝、梓磊ズーレイが出ていって間もなく窓より舞い降りてきた式の言葉に静麗は飛び上がった。


「御免なさい、ちょっとこれ急ぎで帰らないとまずいかも! さっき陛下にお願いした本を受け取る準備、進めてもらっていいかしら?」

「え、ええ。無論ですとも」

「ありがとう。ちょっと挨拶済ませてきたら戻るから、ここに置いておいて貰って!」


 侍医としてこれまで世話をかけてくれた霊亀レイキへと声をかけて部屋を飛び出した。

 まだ日の高い時間。昼夜の感覚が逆のこの世界では官吏たちは休んでいる頃合いだ。今更順風耳と千里眼たちに目をつけられる心配をする訳もなく、静麗は後宮へと向かう道を駆けていく。


 先ほどまで龍帝陛下もこちらにいたのだから、逢瀬を邪魔するようなことにはならないだろうと確信を持ちながら。




「……と、いうことで。うちの師傅センセイが家を物で中から破裂させる前に帰らなきゃいけないの。慌ただしくて申し訳ないんだけれど……」

「あらあら、そんなに掃除が苦手な人だったの?」


 知らなかったわと鈴の音を転がすように笑う水母娘娘スイボニャンニャンに静麗は盛大にため息をついてみせた。


「苦手どころじゃないんです。どう考えても家にこんなに物があるはずないでしょ! みたいな状態に気がついたら散らかしてるのよ?」

「そうだったの、聞いていた話と全然違うから意外ね」


 聞いていた話、という言葉を耳にして少女は瞠目する。はじめて彼女と出会った時のやり取りが耳に蘇ってきた。


娘娘ニャンニャン師傅センセイの知り合いじゃなかったの?」

「話には聞いているけれど、人柄までは知らないわ。ただ、とても優秀なあやかし狩人だということと……そうね、弟子のあなたにいうことではないけれど」


 口を一度勿体ぶって止めた美しいあやかしは、耐えきれないように口元を綻ばせた。


「…………とても性格が悪い人だと」

「間違ってませんね」


 間髪入れずに肯定した。



 ◇



 そういえばどうして師傅の人柄を知らないのに性格の悪さを知っているのか。疑問が湧き立ったのは出立前に一度お茶の席に着いてほしいと玲水リンスイに願われ受諾した、その席の終わり際だった。


 これまで共に席に着いていた時と同じくらいの穏やかな時間の終わりにそんな話題を蒸し返すのも憚られて、代わりに静麗ジンリーは疑問を口に出す。


「そういえば、梦琪ムォンシー翠花ツイファはこの時間だし居室にいるかしら。できれば彼女たちにも挨拶をしていきたいのだけれど」

「……。梦琪ムォンシーでしたら次の儀式の支度をしてくれているので、尚儀局にいるかと」

「そうなのね、ありがとう」


 ──それならばまずはそちらへと向かって、翠花は部屋をまず覗いてみましょう。

 改めて立ち上がった静麗が挨拶をしようと玲水を見遣れば、娘娘は眉をきゅっと窄めて口を小さく開いては閉じていた。


「どうしたの?」

「……いえ。こういう時に、なんて言葉を掛ければいいのかと思って……」


 言葉を詰まらせた美しい女性は、いくばくの吐息をこぼしてから内緒ごとを伝えるように耳元に顔を近づけた。はっきりとは見えなかったが、その表情はこれまでの穏やかながらも凜とした皇貴妃ではなく、市井の娘のように見えた。


「……実をいうとね、こんなふうに穏やかな形であなたと別れられるなんて、ちっとも思ってなかったの」

「それは、私が人間だから? あやかし狩人だから?」

「いいえ、……私があやかしだから」


 そのまま腕が回り抱きしめられる。木犀の木霊として誤魔化すために焚いた香の香りとは全く違う、清廉な水の香りが鼻をくすぐった。


「あなたは優しい子よ静麗ジンリー。そのあなたが、何かを殺める道を躊躇いなく進んでいる。それだけの理由があり、それがあやかしへの憎しみでしょう?」

「……ええ。……ごめんなさい、貴方や颯雨ソンユたちみたいに、私が人と分かっても手を差し伸べてくれてる人がいることは知ってるの」


「、でも」


「…………結局のところね、それでもあやかしという存在そのものを許せるかといえば、許せない」


 それを許して仕舞えば、私自身の半生を否定してしまう。雨の中で泣く子どもの私を、見捨ててしまうことになる。


「……っ、……ごめんなさい。優しくして、くれたのに、貴方たちを嫌いじゃないのに、なのに……」

「良いのよ。良いの。……私もね、許せない存在というのは確かにいるの。だからお互い様よ、ね?」

「でも……」

「よいの。……悲しくないと言ったら嘘になるわ。でも、あなたがあなたの心に嘘をつかないでいてくれること。それを正直に伝えてくれたこと、それが何よりも嬉しいの」

「……そんなこと、で……」


 いつの間にか後ろへと回っていた腕が静麗の背中を摩る。狩人としての自分なら、腕が回る前に跳ね除けていたはずだ。否、そもそもこんな風に抱きしめられはしなかった。


 ここに来て自分は決定的に変わってしまった。

 それが良いことなのか悪いことなのかわからないまま、この涙雨が止むまではと言い訳をしながら、水の香りに包まれていた。

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