第31話 月光の幽鬼

 扉の向こうには女が立っていた。

 月光を仰ぎ覧ながら、音を立てて開いた戸へは目も向けず。その後ろ姿は祈りを捧げる信者の如く敬遠さがあった。


「そなたが……君が、表の世界の陰陽鏡をこちらへと持ち込んだ張本人だな?」

「……」

「実行は君ではないだろうが……表の人間たちの後宮にて女官が一人死んでいる。……の誰かの恨みを買っていた、というところか?」

「……そこまで調べはついているのですね」


 表情の抜け落ちた顔で女は振り返った。幽鬼のようだと形容するのは相応しくない。何故なら女は幽鬼そのものなのだから。女たちの情念が凝り固まった花魄カハク。そのうちの一柱である娘がそこには立っていた。

 両手で陰陽鏡を握りしめているのを見て、颯雨は気を引き締める。ここは龍穴ではないとはいえ、油断をすればあちらの世界に逃げられる恐れとてある。感情を逆立てることのないよう、慎重に口を開いた。


「当然だ。宮中で騒ぎが広まりはじめた頃合いと君がこの宮へと参内した時はおよそ同じだということは記録を見てわかった」

「……そんなところから足がつくなんてね」

「お互い様だ。先ほど静麗ジンリーが土人形たちに襲われて撃退をしていたが……私が成長する契機に彼女が関わっていることを禕書に伝えたのは君だろう?」


 翼龍の姿にまで成長した時、静麗の部屋へと足を運んだ際に姿を第三者に見られていた。孟婆モウバの協力で後宮に向かったことは忘れさせられたとしても、その場で自分を見た記憶は消せなかったのだろう。

 肉厚の唇がうっとりと微笑む。人の子が見たならば魔性の笑みだと虜になってしまいそうな。


「ええ。お伝えしました。……あやかしの頂点に立つべき存在が、よりにもよって人の子に心を赦し、存在の拠り所にするなど到底看過出来ませぬから」

「花魄の娘よ、かつて人間であった君が、それをいうのか」

「だからよ!! 人間たちは、あいつは、あの人は、あの子は、を裏切った!!」


 突如荒れ狂う般若の形相を見せる。

 この場に静麗を連れてこなくてよかったと、心底颯雨は安堵した。口では躊躇いなくこちらを突き放すようなことを告げる少女だが、その心根の優しさは紛うことなきものだから。


 感情が昂り、涙を流す女妖は苦痛に耐えもがくように両手で頭を押さえた。慟哭が月の下に響きわたる。


「人間のことを思うたびに胸を掻きむしられる。この身が憎悪で焼け焦げる! かか様は口減しに私を捨てたわ! 爸爸とうさまは私を産むつもりはなかったと苦々しげに川へと蹴り落として、愛しかったあの人は私を裏切って他の女の元へと通っていた!!」


 幾人もの哀れに命を弄ばれ、死んでいった娘たちの情念が胸を掻き毟りながら怨嗟の悲鳴をあげる。それこそが花魄カハクであり、翠花ツイファの本質だった。


 それは本来ならとても悍ましい在り方だ。翠花としての人格が宿るよりも先に憎悪と復讐心が宿ったもので。だからこそ幽鬼の娘たちはこちらの世界に渡ったとしてもその多くが地位を得ることができない。婢女はしためとして生きることが殆どとなるのは、彼女たち自身のせいではないのに。



「私たちを傷つけて弄んで塵のように捨てたものたちを、私たちが踏み躙ってなにが悪いの!? 先に奪ったのはあいつらよ!」

「……そうだな。踏み躙ったのは、向こうが先だ。復讐されてもおかしくないことをしているのかもしれない」


 あるいは、こちらが勝手にそう信じたいだけかもしれない。

 颯雨とてそれを信じ続けていた。千年もの間。ずっとずっと自らの不甲斐なさを見たこともない兄の仇へ押し付けていた。

 押し付けていた側の自分が、この少女の言葉を否定する権利などなかった。線で隔てられているものに、向こう側の声が届くはずもないのだ。



「それでも……本当に君がその復讐以外何もないというのなら。どうして静麗と笑い合えたんだ?」


 寒雨が突如吹き込むような心地だった。それほどに翠花の顔は一瞬で蒼ざめ、背筋を振るわせたのだ。


「人だと知らなかったから、それは間違いなくあるだろう。君の在り方で彼女が人と知っていれば、出会い頭に引き裂いても無理はない。それでも、禕書に告げ口をすることでしか、間接的にしか君は動けなかった」


「……ちがう、禕書様は、私を拾って、復讐をして、くれるって。だから、伝えただけで」


「女官を殺さなかったのは、禕書の説得あってか……。向こうとて君に恨まれていることを知っているなら、専用の魔除けくらいしていてもおかしくない」

「そう、あの方は、私の望みの殺し方を聞いて、それに相応しいあやかしを捜してくれた。だから今回もそうしただけ、あなたがわざわざ部屋を、あの子の、だから、それを禕書さまに、お伝えして」


 その言葉に嘘はないとして、確かな動揺があった。だから颯雨はわざと続いて質問をした。鎌掛けと言ってもよい。何せその情報を口にしていたのは、出どころも定かでない男だったのだから。


「ならば、どうして陰陽鏡を彼から奪った?」

「…………ッ!!」


 瞬間、はっきりと息を呑む。

 動揺を露わにした翠花の顔に憎悪の色は薄らいでいた。



「恐らくだが、私が部屋にいたことを報告したその時はまだ、君は静麗が人間だと知らなかったんだ。私とて、あそこで木犀の木霊だったはずの彼女が土の術を使ってはじめてその正体に気がついたのだから」

「…………ぇ、て……」


 あやかしであるならば、味方につける手段はいくらでもあっただろう。最悪は翠花自身が説得をすれば、静麗とて揺らいだかも知れない。だがそれは前提が違っていればの話だ。


「禕書にとって、静麗の存在は厄介そのものでしかない。この龍妖宮に潜り込んだ人間で、あやかし狩人で、しかも彼女の存在が如実に私の成長に関与していた。もしも彼が追手を差し向けたら、いかに狩人だとしても命の保証はない」

「…………めて……」


「ならば彼女を助けるにはどうすればいい? 彼女が逃げてくれればいい。世界を渡れる鏡は持つ者が限られている。禕書に預けていた鏡を取り返せば、世界を渡って追いかける術は彼にはない」

「やめて!! !!」


 甲高い悲鳴が彼女の口から上がる。他者への恨みや憎悪から生まれ落ちた花魄カハクにとって、文字通り魂を引き裂かれる苦痛だろう。

 それでも、翠花ツイファとしての少女はあの狩人の少女に心を寄せたのだ。憎むべき存在だとしても、人間だとしても、死んでほしくないと。




「……………………、こころなんて、なければよかった」

 鼻を啜る音と共に、微かに聞こえたのがその言葉だった。



「心なんてなければ、私はあの子を、部屋にいって、腹を裂いて、くらえたのに。にくいとあるがままに任せられたのに」

「……そうかもしれない。それでも、心がなければきっと喰らいたいとすらも思うことはなかったんだろう」


 月を仰いでいた少女は気がつけばしゃがみ込み、顔を隠すように膝を抱えていた。

 陰陽鏡は月の光を受けながら、くるくると円を描いて床を滑る。足元にぶつかって止まったのを、そのまま男が拾い上げた。


 むずかしいわねと呟く少女に、難かしいなと颯雨ソンユも小さく頷いた。

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