第30話 根本にあるのは

 颯雨ソンユ静麗ジンリーと別れて向かった先は、外へと向かう彼女とは真逆だった。


 龍の姿で飛ぶ方が早いだろうが、無関係のものにこれ以上見咎められることは避けたかった。

 ──もっともそれは無用な心配の可能性の方が高いか。


 これだけ気配がない外朝を見ることは颯雨の千年余りに至る生の中でも稀だった。兄があらかじめ物忌として出仕を取り止めでもさせていたのか。

 その推測は向かった宮の先。霊羊レイヨウの女官が頭を下げたことで益々深まった。


「ようこそいらっしゃいましたぁ、颯雨様」

「……私が来ると分かっていたということか。兄の差し金か?」

「はぁい。とは言えど、私もことの次第を知ったのはついさっきだったんですけど」


 女官の手招きに一度足踏みをして、けれども颯雨は最終的に着いていくことにした。会うべき者の住まう位置は分かっているが、彼女に着いて行ったほうが安全かつ早いだろう。外朝と異なり後宮はあやかしたちの気配がそこかしこにした。


 小さな鼻歌混じりで霊羊、梦琪ムォンシーは歩き出す。彼女の歌には他者の意識を逸らし、眠りへと落とす作用があったはずだ。決して気分が良い結果ではない。

 その証拠に彼女の顔はどこか沈鬱な色を載せていた。


「……颯雨様は、ご存知だったんですか?静麗のこと。彼女が人間だって」


 曲がり角を三つ潜ったところで、梦琪が蚊の囁くような声で尋ねる。聞き逃しそうになった颯雨も、その名前を耳にして背を正した。


「私も知ったのはつい最近だ。兄上の運命だと女官が仕立て上げられた……今考えれば、それも兄上たちのはかりごとだったのだろう?」

「えぇ。……私もね、龍帝陛下の護衛をするから後宮からは離れるというお話を聞いた時、はじめて知ったんです」

「……」


 可憐な姿に似つかわしくないほどその声はざらつき、暗い。人に対して良い感情を持つあやかしは少ない。自分だってつい先日までは、人餌派と一括りにされていた自覚がある。緊張が颯雨の間で走った。


「……恨めしいか?彼女が」

「彼女自身を恨んではいませんよ。私の爸爸とっさまを殺したのは静麗自身じゃないんですから。……でも、そうですね。人だっていうのなら、あっちの世界からこっちに来ないでほしかったですぅ」

「そうか……」


 固く握りこぶしをつくる。そう感じるあやかしは、おそらく彼女だけではなく……──。


「だって……折角来て仲良くなったのにこれでお別れなんて、悲しすぎるじゃあないですか」

「え?」

「はぇ?」

「え、それは彼女が人だからとかじゃなくて?」

「うーん。私たちと同じものならことが終わってからも何かと理由をつければ後宮に残ってもらえますけど、人間と私たちの間には不可侵の約束がありますものぉ」

「……恨んでたりは?」

「さっきの私の言葉、聞いてました?」


 呆れかえった声にしばし呆然して、それから次第に肩を揺らしていく。耐えきれない忍び笑いを隠すべく、口元を手で覆う。


「……ふ、ふふ。っ、すまない」

「まぁ、そんなにおかしなこと言いましたぁ?」

「いや、おかしくはない。……おかしくないという、その事実が嬉しいんだ」

「颯雨様ってば妙なことを仰いますねぇ」

「そうだな。……妙なことついでに。私はこの事件が収まったとして、その先にまたこっそり彼女に会いに行こうと思ってるんだ。その時は一緒に来るか?」

「あらら。梓磊ズーレイ様はそのことは?」

「言っていない。だからやるなら兄上にも隠してコッソリになるな」

「いけない子ですねぇ。でも楽しそうですぅ」


 細い目をますます細めて女は笑う。


「でも、そういう殿下はどうなんですかぁ? 恨んでないかって聞いてきましたけど、人間のことはもう恨んでいないので? 将来は人餌派が台頭するって私や娘娘は大変だったのにぃ」

「……こちらでも噂になる程私は人間憎しだったか?」

「うーん、そりゃあ未来の龍帝殿下の対人間思想はねぇ、派閥の関係にも響きますからぁ。颯雨様がご認識されてるかはさておき?」


 そう言われれば返す言葉もない。以前は……本音をいえば今も少しだけ、そうしたものは面倒くさいとしか思っていないので。


「兄の仇張本人や、その子孫というものが目の前に現れて、朗々と自慢をしてきたならわからないけどね。そうでないのなら、うん、無関係の者を傷つけるつもりは、もうない」

「あらあら、愛ですねぇ」

「…………あい?」

「えぇ? だって静麗ジンリーのおかげなのでしょう? その考え方って」

「……まあ、そうだな?静麗というがいると知れたから。は、ある」

「ほら、やっぱり愛ですよ。自分にとってそれしかないと思っていた視点を、丸ごとひっぺがしてひっくり返してくれたんですから」

「そう……そういうものなのか? なるほど、うん」


 ──雛からは脱却できたとはいえ、未だ颯雨ソンユの情緒は動き出したばかりだ。愛や恋といったものからはまだ遠いのかも知れない。

 それでも、だからこそ見守るのが楽しいんですよねぇ。不敬と取られてもおかしくないことを考えながら、梦琪ムォンシーは手をひらりと横にふった。



「さっきのお誘いですけど、保留にさせてくださいな。私一人でいったら後で娘娘もあの子も拗ねちゃいそうですもん。……あの子も、もし行けそうでしたらその時はで」

「…………そうか」


 弛まず進んでいた足が止まる。颯雨ソンユの記憶とも一致する。この部屋の隣が静麗ジンリーの居室だったはずだ。

 お辞儀をした梦琪ムォンシーが影の中に消えていくのを顧みることなく、颯雨は扉に手をかけた。

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