第21話 千年の間知らぬこと


「申し訳ありません、陛下。敵を誘うための流布で四方よも颯雨ソンユが……」

「気を病むな玲水リンスイ。お前の責任ではない。元はといえば後宮に忍び込むのを見逃していた私に非がある」


 後宮の一角、最奥と読んでも差し支えない三宮のひとつ。水母娘娘スイボニャンニャンである皇貴妃が住まう一室は清浄な水が溢れる湖の上に建てられている。

 常は多くの女官たちが世話をする場所だが、今は信頼のおけるごく少数を除き人払いを済ませていた。


「幸いなことに孟婆モウバの尽力で多数からの記憶は失われた」

「それは颯雨ソンユが後宮へ向かった件についてだけだと訊きましたわ。あの子がしたことについては、多くの者が今や認識しているのでしょう?」

「そうだ。人餌派にとっては千載一遇の好機だろう。今のうちに颯雨を取り込めば、次代は人餌派の天下となる。すでに奴らが陰陽鏡を持っているのなら、人の世界に攻めこむのは時間の問題となる」


 鬼灯に点った焔が揺らぐ。暁の空は光を迎えはじめているといえど、まだ薄暗い空は容易に部屋を翳らせる。


「……あなたはそうさせない為に今の御代を築いたのでしたね」

「そうだ。人餌派は愚かにもこちらが蹂躙出来ると思っているのだろうが、上手く行くはずがない」

「あやかし狩人がいるから、ですか」


 龍帝、梓磊ズーレイの首が縦に振られた。


「千年ぶりに狩人の戦いを見たが、あやかしにとっては致命とも言える相剋を、常に自らに有利に働かせる。我らに比べれば筋力も生命力もない者が、決して弱くはないあやかしを翻弄する様を目の前で見せられた。……数は千年前よりも減っているかもしれんが、敵対すれば被害は大きいだろう。勝てる保証もない」

「…………」

「すまぬな、玲水リンスイ。……お前のかつての婚約者は人間に殺された。本来ならば中立派などと、そういった括りで呼ばれることも不快だろう」


 慮る視線を向ける梓磊に、花の咲くような笑みを娘娘は向けた。


「いいえ、梓磊ズーレイのあにさま。あにさまが人と争いたくはないと思う御心、玲水にもよく分かります」

「……、」

「知ってますか? 静麗ジンリーは辛いものがとても好きなんです。この間南から取り寄せた花椒を見せたら目を輝かせて、わたくしたちに麻婆豆腐と呼ぶ料理を振る舞ってくれたのです。わたくしと梦琪ムォンシーのものは控えめな辛みにしてくれたのですが、静麗のものを味見したら梦琪ってばひっくり返って」


 童女のような衒いない笑みを受けてなお、梓磊は表情を変えなかった。けれどもその心うちが決して凍てついたものでないことを、玲水は知っていた。


「その時のあの子の心配した顔と言ったらね、本当にどこにでもいる子でした。心やさしい……わたくしたちと何が違うのかと、思ってしまうくらいに」

「玲水」

「知らなかったのです、わたくしは。齢百年も生きない者があのように笑って泣いて、情緒豊かに存在するなど。……あやかしを屠る恐ろしいはずのものが、ただそこにいたからという理由で護ってくれることがあるのだと。それを知ることができたのは、僥倖だと信じたいから」


 いつの間にか空になっていた龍帝の杯に、皇貴妃が徳利を傾ける。


「全てがあの少女のようなものではない」

「存じています。あやかしとて、種が同じものでも性質が異なるのですから」

「それでも僥倖と言えるのか?」

「はい。だってあなたが、人を恨まぬ根幹を垣間見ることが出来たのですから」

「……私が憎むのは、ただ一人というだけだ」


 常は能面のように動かぬ眉間にしわが寄せられるのをみて、玲水は口元を隠して笑う。梓磊は何も返さぬまま、杯の中身を飲み干した。


「話を戻す。不測の事態の中で颯雨ソンユが雛から脱却できたのは不幸中の幸いだった。成龍とまではまだ呼べぬが、首尾よく運べばそれも時間の問題だろう」

「ええ。……ですが、それは裏を返せば時間の問題だということ。これからいかがなさいますか?」


 颯雨は無派閥を表明はしているが、人を憎み復讐を求めるその在り方は人餌派と同じものだ。人の世界に渡り人を弑すれば、それは確定的になる。

 杯に徳利を傾けようとした玲水を制し、杯は床へと置かれた。


「……颯雨より、静麗と話をさせてほしいと言われた。悪いが手引きを頼まれてくれるか」

「わたくしは良いですが……宜しいのですか?」

「どう転ぶにしても、弟の願いだ。……ただ、それが終わりしだい、静麗は此方に寄越せ」

「陛下の元に?」


 龍帝らしからぬ乱暴な物言いに、玲水の片眉があがる。


「まさかあの子を苛めようというのではないでしょうね」

「二人の話がどう転ぶかも判らぬ状態で苛めようもなかろう。……黙っていても颯雨の即位が時間の問題な今、私の動きを奴らは最大限警戒する筈だ」

「刺客をまた送ってくると?」

「女官を手元においたと風評が流れれば確実にな」

「……まあ、今の彼らがもっとも恐れるのはあなたの子が天の力を持つこと。そして颯雨がその子こそ次の皇位を継承すべきだと表明することですからね」


 静麗ジンリーの読みがここまで当たっているのだから。


「だからこそ、ここで今一度奴らに知らしめておく必要がある」

「何をですか?」

「あやかし狩人というものが、いかに我らにとって致命的な存在なのかを、だ。……どれだけの刺客を送り込もうと、それを容易く屠る人間はいるのだと。簡単に喰らえるようなものではないことを、その身をもって味わってもらわねばならん」


 対話で心を変えることは、人餌派の者たちには不可能だ。あやかしの本質にも関わってくる。それを皇貴妃も分かってはいたが、物言いに憂いた瞳を覗かせた。


「……荒療治ですね」

「千年の猶予をくれてやったのだ。逆にそれ故に人の恐ろしさを忘れているのだろうが、一度ここで灸は据えておく必要がある」

「命を落とすあやかしもいるでしょう。先日のように」

「そうだな。手をこまねいて無辜の人の子が死ぬか、策を弄するものの配下が死ぬだけの違いだ」


 鋭い言葉に玲水は瞳を伏せた。


「分かりました。ですが、静麗ジンリーが望まぬのなら荒療治は程々になさってください」

「…………情の深いお前らしい」


 殺められるあやかしではなく、殺める少女の側に心を寄せるとは。或いは娘と、それだけの時を過ごしたのだろう。


「だが、心配は要らぬさ。師曰く、彼女は既にあやかし狩人としてはされているようだからな」

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