第20話 嵐
「聞いたか? 後宮で
「まだ噂だろう? 今度それを確かめに向かうと聴いたぞ」
ずっと子に恵まれていなかった龍帝陛下の運命が見つかったかもしれないという噂は、後宮の門を越えて外朝にまで広がっていた。通路を渡れば角の振動で多くの声が聴こえてくる。皇弟である
「よくもまあ、ここまで後宮の噂が広まるものだな」
「娘が後宮に入っている官吏の方もおりますから。特に此度の話は大きなものですし」
現在の後宮は皇貴妃である
それに、意外と噂の信憑性は高いのかも知れない。先日の兄の苦悶に満ちた顔も、運命に巡り合ったためのものだったと思えば説明もつく。
もしも兄の前に現れたのが彼の運命だとするならば、今度こそ子が産まれるかもしれない。その子が天の力を持ってさえいれば──。
「……とかどうせ考えていらっしゃるんでしょう、
「鋭いな、
「当たり前です。何百年の付き合いになるんですか」
見た目は幼いがすでに三百を数える
「それにしても、どんな子なのでしょうね。
「どうだろうな……兄君は氷のようなお方だ。その冷たさを溶かすような器の広さがあるかもしれない」
脳裏によぎった赤い目に、胸の奥が騒ついた。
「自分にはないものを持ってたり、逆に自分とそっくりな存在に惹かれるって言いますものねぇ。今回見染められたのは入ったばかりの女官だと言いますし、あまり俗世に染まっていない姿が目に留まったのかもしれません」
「……、……」
沈黙の帷が降りる。入ったばかりの、女官。
「何にしても、その女官の方が龍帝様の運命だったら良いですね。今頃、龍帝陛下も女官の方に逢っていることでしょうし、そのまま運命の恋に落ちちゃったり……」
「────すまない。小浪、少し所用が出来た。その本は陰書楼に返しておいてくれ」
「えっ、颯雨様!?」
後ろから本が崩れる音が聞こえてきた。重ね方が甘かったか、突然すぎて小浪が腕力負けしたか。要因を顧みる余裕はなかった。
今の颯雨の頭の中を占めているのは、黒髪に赤い目をした少女のことだけだった。
角が捻れ形を変えていく。青銀の髪は鱗に、金の瞳の瞳孔は細まり、服は飛膜と変貌する。だがこれでは足りない。仔蛟と揶揄されたその身体では速度は出ない。疾く、捷く。心ばかりが急き勝つ。
「お、お待ちください! 颯雨さ……!」
再び後ろから、もうだいぶ遠くなった小浪の声が聞こえた。声が遠い。感覚ではなく物理的に。
振り返れば少年の背丈はものの見事に小さくなっていた。翻せば、それだけの距離が離れたということ。
風切の役割を持つ先端の飛膜が容易に目に入る。以前は首を後ろへと向けてやっとだったというのに。
「
「まさか、あれ程までの御姿に……」
「なんと立派な翼だ!」
角の振動が官司たちの響めきを受け止める。けれどもその意図を理解するよりも捷く、翼は風を捉えて後宮へと向かった。
◇
宮は広い。仔蛟と静麗が呼ぶあの姿では、翼に力を込めても半時辰(一時間)は移動にかかったであろう距離。それが体感ではあるが凡そ一刻(十五分)にも満たぬ時間でたどり着いたことにはさすがに驚きを禁じえなかった。
けれども止まり木もなく、また気だけが厭に急いている時分に自らを顧みる余裕などない。
「
彼女が以前雨の中抱き上げて連れて行ってくれた部屋へと向かうが、そこはもぬけの殻だった。外気と同じだけのはずの体温が沸騰する心地がする。花窓から室内を覗き込むのを早々にやめ、翼を大きくはためかせた。
「きゃっ、……龍種……!?」
小さな悲鳴に目だけを向けて影の容を見るが、捜し主の少女ではないことを確認してそのまま飛び立った。姿すら碌に隠さぬ愚行を悔いるのは、後でいい。
姿が見えぬなら音だと、意識を角へ研ぎ澄ませる。大気の揺れを耳以上に鋭敏に感じ取る器官はここにきて一層の進化を遂げていた。
火花が散るような異質な響きが聞こえる。
「……っ、たく、……わね…!」
「…………!」
微かに聴こえてきた声が、自分の探している少女によく似ていた。向かう理由などそれで十分だった。
向かった先で繰り広げられていた光景を見て、颯雨は目を見開いた。
──静麗がいる。探していた相手だ、それは問題ない。兄上がいる。……望んではいないが、予想はできていた。
だが、少女が兄を庇うように立ちながらあやかしと交戦をしている姿などは想像だにしていなかった。それも、出会った時とは明らかに違う。華奢な体躯をしている静麗の方が明らかに、あやかしに対して優位を得ていた。
「……、この気配、は……」
「!」
兄も龍族、その角はこちらの風を捉える翼の音を拾ったのだろう。もはや取り繕うことは出来ない。目を逸らすことも。
それは兄も同じだったようで、はっきりと意識が逸れたのを、眼前のあやかしは見逃さなかった。間に静麗が入る不利な体勢でありながら、その巨腕を振り上げたのだ。
「御命頂戴する!!」
「……はっ、隙を見せたわね!」
静麗が懐から何かを取り出した。それは以前本当に僅かに颯雨が見たのと同じ、紙に何かを書き付けたものだ。
「急急如律令!」
「!」
放たれた符は忽ち力を織りなした黄の光を帯びる。閃光の形を成した符はあやかし、
土剋水。土は水を堰き止め穢す。青々とした毛並みが肉眼でもわかるほどに艶をなくし、枯れ果てたように虚な眼光が天を向く。
「女……、な、ぜ……」
鈍い音が響くと同時に倒れたあやかしの生気が、たしかに目の前で絶たれた。それだけの所業を、紙一枚でやってのけた少女が後ろを振り返る。
「ご無事ですか、陛下!…………、陛下?」
返事なく頭上を見上げる
翼龍は何もわからなかったが、このままではいけないことを理解していた。降下すると共に、人型へと転ずる。鱗の青銀は髪に、角は捻れた形から天を指し示す形状に。地に着陸する頃には、少女にもその正体がおのずから理解できた。
「……
「────
「君は、木犀の木霊だろう。本分は木のはずで、水や火ならまだしも……」
以前の地脈を探るときに彼女自身が口にしていたことを反芻するように唱える。そんなことはないと、見間違いだと言ってほしかった。期待に反して、少女は目線を下に落としたまま黙りこくる。
「
返事はない。そのことに心臓が早鐘を打ち、目眩すら颯雨は感じてきた。
沈黙を割いたのはため息だ。
「……ここまでお前が翔んできたとあらば、今頃内朝は流布の嵐だろうな」
冷たい吐息と表情で二者を睥睨する龍帝陛下だけが、まともにその場で思考を回せる者だった。
「
「兄上は……どこまで存じて……」
「急げ」
「…………ッ!」
はためいた長袍の裾から先ほど
「……後デ、説明シテモラウ、兄上モ……
その言葉を最後に、翼竜は大きく飛び立った。
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