第16話 水面の片割れ月


 兄の執務室を後にしたとはいえ、未だ宮中では雛として扱われている颯雨ソンユにこなすべき役割はない。

 それでも無為に時を過ごすよりは動いていた方が気が紛れるもの。静麗ジンリーに教わった地脈を視るまじないを唱えるべく精神を集中させる。


「『かしこみかしこみ申し上げる。五行のひそめき、水の気よ、地に巡るいぶきを示したまえ』」


 言霊は気と混ざり合い、大地へと走り光となる。淡く光る後を、緩慢な足取りでたどっていく。


「…………、復讐が、果たせなかったらか」


 言葉を口の中で転がした。以前静麗にも問われた言葉。人はおよそ百年も生きられない者だとは知らなかった。遠い昔に復讐の芽は絶えているかも知れない。


 それでも。光の溜まる場所を指し示す地図の箇所に印をつける。それならばその子孫を弑するだけだ。復讐を遂げることすらできないのなら、自分が生きている価値もない。


「……殿。颯……の、颯雨ソンユ殿、」

「────っ!」


 遠くを見ていた焦点が急激に引き戻される。我に返り周囲を見渡せば、陰書楼の精励者せいれいしゃが立っていた。


泰然タイラン

「名を覚えてくださったとは光栄です。このように外朝の隅を当てどもなく漂って、どうなさったのですか?」


 にこやかで人好きのする笑みの筈なのに、どこか抜身の刃を向けられるような緊張感をこの男と話すたびに覚える。真綿の存在が恋しくなるが、悪意がないことは窺えたので颯雨も簡潔に応えるだけに留める。


「少しな。知人から五行のまじないを教えてもらったもので、自分でも試していただけだ」

「五行ですか。あやかしの中で五行全ての御力を使えるのは当世では颯雨様だけですからね。是非活用されると良いかと」

「あやかしの中では……か。そう思えば尚のこと、人間の特異性が窺える」


 道具を操り文明を興し五行を宿す。あやかしたちの中では頂点に立つ権利にも等しき行いを、人という生き物は無造作にしてのけるのだ。これを恐ろしいと呼ばずになんと呼ぶべきか。


「代わりに生命力は薄く、脆く、寿命も短いですがね。何事も一長一短というわけです」

「その分一気に増えるのだから、種としての生命力は我らの数段上だ。悍ましい」


 感情のままに吐き捨てれば、くつくつと低い忍び笑いが溢れる。何が楽しいのかと睨みつければ、堪えた様子もなく失敬と上滑りの謝罪が返ってきた。


「……お前、性格が悪いな」

「自覚しております。娘たちにもよく呆れられるのですが、こればかりは悪癖で」

「娘がいるのか」


 それには素直に驚いた。あやかしの多くは人の姿の見目年齢をある程度操作できるが、長く生きればそれだけ気は減衰する。武官と比べても遜色ないほどに精力的な男だ。歳としては若い方だろうと思っていた。


「ええ、幾人か。跳ねっ返りもいれば御淑やかなのも、幾人かは後宮に入りましたが、独立して商いで生計を立てるものも。佳い相手と巡り合ったものもおりました」

「……佳い父親なのだな」

「どうでしょう。殺してやると胸ぐらを掴みながら怒鳴った娘もいましたので、なまじそう言いきって良いものか」

「…………微妙だな」


 それだけ多くの娘を育てるとは火鼠カソの一族のものだろうか。南のとある地方には多くの火鼠が住むという。


「──一つ、与太話として聴きたいのだが」

「なんでしょう」

「それだけ多くの娘がいたのなら、一人か二人は己の望みや夢叶わぬ者もいただろう。彼女たちはどのように立ち直っていったのだ?」


 颯雨ソンユの問いは泰然タイランには意想外だったのだろう。これまでになく目を丸くする様はどこか幼く、とても娘が幾人もいるようには見えなかった。


「……くくっ、面白いことを訊きますね。ええ、無論そう言った娘もいましたよ。けれども時というのは無常に過ぎるものです。その間に次の夢やのぞみを得た者がいれば……心半ばに頓挫して世を儚むものもおりました」

「……南は弱肉強食を謳うと聴く。さぞや至難だろう。その娘たちを分けた明暗は、一体何だったのだろうな」

「それは勿論、決まっておりましょう」


 独白めいた言葉に返る答えがあるとも思わず、顔を上げれば赤紫とかち合う。


どうかです。個であるその者に非があるわけではなく、無数の因果の繋がりが佳き方向に巡るかどうか。如何に偉大なるあやかしであろうと、ただひとつでは生きれないのですから」

「……それを天龍の前で言うのだから命知らずだな、お前は」

「事実ですし、それで不興を買うほど狭量なお方ではありますまい? 龍の運命も、だからこそ存在するのだと俺は思いますから」

「なに?」

「偉大なる一柱であろうと孤独にあることはできない。だからこそ片割れ月を捜すのですよ。それが水鏡に映る届かぬものであろうと、手を伸ばさずにはいられない」


 陽の落ちた空に、一条の星が流れた。


「──難儀なものだな」

「ええ、本当に。でもそれが生きると言うことです」


 遠くで颯雨ソンユの名を呼ぶ小浪シャオランの声が聞こえる。夕議が終わったというのに行方が知れぬ自分を捜しているのだろう。目礼を向けて声の方へと向かう。


「あなたの望みが叶うことを祈ってますよ」


 去り際の背中に、泰然タイランの声が遠く聴こえた。






 ────復讐がしたいのだと、娘は口にした。

 雨の日に拾った少女はまだ幼さを残す顔で、溟い瞳を持っていた。ならば知恵と力を授けようと口にしたのは、気紛れからだ。


 上手くこの娘を育てれば、自分の望みも叶うかもしれない。手を差し出したのはただの打算だ。自分という在り方が定義されたその時から果たしたいことがあった。それに役立ちそうだったからにすぎない。


 その瞳に昏さだけではない。光が灯りはじめたのは何が契機だったか。改めて想い出そうとしても浮かばない。世界は自分と復讐すべきものだけ、否、自分すらも復讐すべきものだと信じてやまなかった娘。


 同じように世界を、××××を呪い憎むその目が好ましかった。

 この娘には××××を憎む以外の生き方を知ってほしかった。


 矛盾だ。理解している。それでもあの鏡を──たのは。

 きっと、しあわせになってほしかったから

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