第11話 鏡の成り立ち


 陰書楼は外朝の一角、戸部から程近い府庫に存在した。扉を開ければ独特の黴の匂いと棚、棚、棚。そこには巻物や紐閉じの書物が所狭しと並べられている。

 ここに置かれている書物たちの何割かは意志を持ち、収められる側ではなく自らもまた新たな知見を集め纏めるあやかしでもあった。そのうちの一冊、司書正として金の紋様を表紙に刻まれた本がぱらぱらと捲れながら話しかけてくる。


颯雨ソンユ様。このような場所に足を運ばれるとは珍しい。なにか探し物でございますか?」

「ああ、陰陽にまつわる書物と、そこから派生する道具について知りたい。最近入った官妖がそれらの整理をしていると聞いたが……」

「おや、未来の龍帝陛下のお耳にも入っていらっしゃるとは光栄です。──泰然タイラン!泰然はいるか?」

「はい、ここに」


 司書正の呼びかけに答えたのは、武官とも見まごう均整のとれた黒髪の男だった。書物ではないあやかしも幾人かは整頓役として駐在していると聞くが、この男もその類だろうと颯雨は判断した。


「皇弟殿下であられる颯雨様がお前に探し物を頼みたいそうだ。頼めるな?」

「無論です」


 一礼をした男は赤紫の瞳を細めて「それで、ご用件は?」と簡潔に颯雨へと尋ねてくる。


 ──これは随分と食えない男だ。


 颯雨はそう断ずる。一見物腰は穏やかだが、こちらが気を緩めば喉元に喰らいついてもおかしくない。先日出会った少女の本質と物腰とは真逆だ。


「陰陽鏡、その単語に纏わる情報を知りたい。可能か?」

「鏡……ええ。今書物を持って参りますので、しばし御座りください」


 奥の部屋の椅子へと促して、その付近を四方へと向かう。手間は多そうだが足取りに迷いがない辺りなるほど。把握はできているようだ。曲者の書物も幾つか散見されたが、それすらも難なく手に取るあたり、あやかしの力としても優れているのだろう。


「最近入ったと言ったな。どこの出身だ?」

「南から。傅太の遠戚と知り合いでして、その伝手になります」

「北ではないのか」


 咄嗟に浮かんだ言葉に目を瞬かせた。水母娘娘スイボニャンニャンの生家は北の方にあり、彼女の紹介かと思ったのだ。

 そう、彼女が言っていた。静麗ジンリーに対して弟子を後宮に送ると。その名がタイランではなかったか?


「生憎。あちらは水と木の土地柄です。火の俺とは相性が悪いもので。ここに俺が任ぜられたのも、火ならいざとなれば燃やせるから書物たちはいくらか言うことを聞いてくれるだろう、だなどと」

「そうか……」


 ──ならば良くある似た名前というだけか。

 最近何を考えるにしても、あの寒い雨の中に抱き上げられた手の温もりと、辛くて死にそうになるスープばかりが脳裏に浮かんでいたことを自覚して眉間を揉む。

 本の山を抱え、泰然タイランと名乗った男が戻ってくる。


「お待たせいたしました。こちらが陰陽鏡にまつわる書物になります。量も多いので、よろしければ概略を説明させて頂きますが」

「任せる」


 一礼をした泰然が誦じはじめた。



 **


 かつて人の世界とあやかしの世界は完全に同じ場所に存在していた。

 五行全てを内包した陽の世界である人間界と、各々が各属性を司る陰の世界であるあやかし界。さらにはそれぞれの仙人が至る崑崙と金鰲。それらは位相を異にしながら、意思一つで渡れるものだった。


 しかし一万年ほど前に仙人たちは突如姿を隠した。

 それにより陰と陽の調和も乱れ、世界が歪みはじめる。


 小さな争いと大きな争いが続く中、千年前にあった大きな戦争、仁葉戦争を契機に人とあやかしの間には大きな亀裂が発生する。

 当代の龍帝を殺した者はその遺体を愚かにも引き裂いた。五つに裂かれたその身から、五行を司る鏡が生まれる。これが陰陽鏡のはじまりである。

 次いでその人間は、乱れていた陰陽を糺すべく、自らの心臓を抉り取る。その心臓は龍の血と混ざり、牙となって乱れていた世界を二つに割いた。


 かくして陰と陽の世界は、龍の身である鏡を用いてしか渡ることが出来なくなる。

 龍帝の座を引き継いだ……今代陛下、梓磊ズーレイはその鏡の一つを用いて陽の世界に残るあやかしの内、自らに付き従うものを連れて陰の世界へとその座を定めた。今では鏡の表と裏、隣人でありながら遠い存在となったという。



 **



 ──当代の龍帝が引き裂かれた結果、陰陽鏡が生まれた。そしてその時、兄を殺した存在もまた、自らの心臓を抉っている。

 顔を歪めて胸元を強く握りしめる颯雨ソンユに、泰然タイランは声をかける。


「顔色が悪いですが、いかがされましたか」

「……いや、成り立ちまで知ることがなかったからな。少し、驚いて」

「ああ。当時はまだ皇弟殿下も齢五百と幼かったですからね。御耳に入らないよう慮られていたのでしょう」


 そこで謝罪をしないことについて、颯雨としては逆に好感が持てた。いつまでも無知な雛ではいられないのだ。いい加減大人にならねば。


「──当時のことを知るあやかしは少なくなりましたが、長老級と呼ばれる木霊や仙の力を持つものでしたら現存するものもおりましょう」

「いい。当時を知りたいわけでは……ないからな。陰陽鏡を具体的に誰が持っているかは知っているか?」


 颯雨の問いかけに男は首を横に振る。


「一つは龍帝陛下、一つは人の皇帝が持つとされています。ですが残りについては存じておりませんね」

「……そうか」


 一つを兄上が、もう一つを人餌派が。

 そして一つが人の世にあるとすると、静麗ジンリーはどこで鏡を得たのか。針でもおけそうな程に長い睫毛を伏せて考えるが、結論が出るはずもない。椅子を引く音がやけに大きく室内に響いた。


「分かった、ありがとう。こちらの本は借りても?」

「ええ。司書正に返却の日取りだけお伝えを」

「ああ」


 頷けば言葉が途切れる。ふいに泰然タイランが窓の外へとその赤紫を向けた。


「……雨が、降ってまいりましたね」


 その言葉に視線を同じ側へと向ければ成程。勢いはないがたしかにしとやかな音が聞こえてくる。


「そうだな。しょうの儀の日取りが近づいているはずだが、この調子では皇都は必要がないやもしれん」

「ええ。……今宵は冷えることでしょう」


 それまでの不遜さは変わらずにありながら、どこかの何かを慮るような。そんな響きが泰然の声にはあった。故にだろうか、一つの言葉が脳裏をよぎったのは。


 ──雨の日は寒いから。


「……、」


 ── 一人の雨の日はね、熱を奪われて凍らされるような気持ちになって、心まで冷えていく。だから誰かといて温もりを分け与え合うのがいいって。


「……書物は部屋まで運ぶように。司書正には伝えておく」

「ええ。畏まりました」


 恭しい礼を背中に受けながら、颯雨は足早に陰書楼を後にする。一人になった部屋で、泰然は扉を見つめてから視線を再び窓へと移した。




「……ふう。あの調子なら泣き虫娘の今宵の相手は任せてもよさそうだな」


 式でも飛ばして独寝を慰めてやっても良かったが、熱のない式よりはまだ温もりがあるだろう。泰然は誰にともなく呟いた。


「──いや? そもそも龍は爬虫類か? なら温もり的には微妙か」


 第三者が聞いていれば呆れ返るどころか不敬だと怒鳴りつけられるようなことを口にしながら、雨が滴る様をしばしの時、男は見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る