第5話 なみだ雨の過ぎるまで


「まだ残ってたわね、よかった。この隙に逃げちゃうかもって思ってたの」

「キュイ……」



 部屋で濡れていた仔蛟を乾布で拭き、自らも手早く髪の毛や衣服を絞り。終わるや否や炊事場にとんでいったものだから我ながら慌ただしい。


 二人分の深皿を盆に乗せて戻れば、寝台の掛布に包まる仔蛟の姿。連れ帰ってきた時に比べれば警戒は小虎から子猫程度のものに変わっていた。



「あんたも冷えちゃったでしょ、こんな時はあったかいもの食べましょ」

「ギィ……」

「警戒しなくっても皿に入れて仕上げの材料があんた、なんてことはないわよ。爬虫類を食べる趣味はないし」

「ギャッ!?」


 変わる表情は豊かで、その仕草を見るだけで心が暖かくなる。

 ──爸爸とうさまが私をからかうことが多いのって、もしかしたら同じ気持ちなのかしら。


 ここにはいない黒髪の男を思い返せば、腹底にふつりと湧く感情がある。だが、それを目の前の仔蛟にぶつけるのは御門違いだろう。


 静麗ジンリーが目の前に赤い液体が並々と注がれた皿を置けば、中身と彼女とを交互に眺める。


スープよ。冷えた体にはこれが一番でしょ。しっかり温まるように香辛料もたっぷり入れたわよ」


 毒なんて入っていないと示すために一口食べれば、羽根のあたりが浮いては沈みを繰り返す。付け根の肩が揺れているのだろうか。おそるおそる匂いを嗅いだ仔蛟は──そのままひっくり返った。



「ギィアッ!?」

「ちょっと、大丈夫!?」



 痙攣している仔蛟の背中と思わしき場所に手を差し込んで起こしてやれば、明らかに目の前の深皿から首を背けるようにのけぞった。紅目をまたたかせて、得心したように静麗ジンリーが呟く。


「ひょっとしてあんたも辛いの苦手?寒い時にはそれが一番効くんだけど」


 ここに入ってまもない頃、味見を求めてきた翠花ツイファも同じような反応をしていた。彼女曰くこんなの食べるのなんて鬼火くらいのものよ!と。

 龍に似た見目だし炎にも縁があるだろうから大丈夫だろうと思ったが、それは早計だったかもしれない。


「仕方ないわねぇ、味付け終えてないのも半分小分けにしてたから、そっちを持ってきてあげるわ」

「ぎゃう……」


 相変わらず仔蛟の言葉はわからないが、それでも「よろしく」と頼まれているような気がしてつい小さく笑ってしまった。



 ◇



 寒さか餓えかは分からないが、随分と疲弊していたのは間違いない。仔蛟が皿をひっくり返す勢いで食べる姿を見て静麗ジンリーはひそやかに笑う。



「あやかしの種族次第で食べれないものもあるとは聞くけど……まあ、龍帝様のお膝元に龍の食べられないものがあるわけないわよね」

「ンッ」


 喉に異物が詰まった時のような音が聞こえて顔をあげるが、むせ込むように吐き出す仕草はせずに、一度食事を止めてこちらを見てくる仔蛟。

 言葉はない。

 鳴き声すらないままこちらを見つめてくる視線の意図を、静麗ジンリーは数拍置いてから理解した。


「訳ありなのは見ればわかるわよ。後宮は宦の術をかけられた官吏か女官しか入れないはずだもの。おまけにちっちゃいといっても龍に似てる見た目。これでたまたま迷い込むって思う方がおかしいわ」


 予備動作なく翼をはためかせて宙に浮く仔蛟。牙をむき出しにして警戒している姿は、恐ろしさよりも愛らしさが先だった。

 肩を振るわせながら少女はゆるりと手を振る。


「でも、それを深く突っ込む気はないの。私とあんたは単に長雨をしのいだだけ。雨が止んだらそこでお別れよ」

「きゅ……」

「納得しきってないって目ね。……私は私で、訳ありってこと。だからもしも変なことをしてるのを見ても、見逃してちょうだい」


 仔蛟の目的はわからないが、後宮内をこれからもうろつくなら、静麗のを目撃する可能性もある。なら恩を売っておくことに損はないはずだ。多少の危険はあるが。


「…………グィ」


 ややして、小さくその首を縦に振った仔蛟は、再び寝台に着地して深皿を舐める。


「ギ、グァ」

「おかわり? もう残ってないわよ。あんたいい食べっぷりだったものね」

「グゥ……」



 不満そうに喉を鳴らしたのはこちらに気を許したのか、はたまた食い意地の強さか。喉の奥でくつくつと笑えば、右往左往と首を揺らしてみせる。

 かと思えば、急に何かを決意したようにきりっとした表情をしてみせた。


「……ギャウ!」

「あ」

「っ⁉︎⁉︎ ギィアッ⁉︎⁉︎」


 手付かずだった赤い深皿。最初に仔蛟用にと持ってきたスープに顔を突っ込んですぐにまたひっくり返ってしまったのだ。



「あぁ……、……っふふ、あはは。何やってるのよあんた。ドジね」

「ギャウ……、……ギャ、フフ、フ」


 口元を抑えて声をあげて笑う。

 不服そうに首を下げていた仔蛟も、気がつけば翼を揺らし、肩を揺らし、全身を揺らして笑っていた。


 雨が上がるまでのひと時、私たちはそうして過ごしたのだった。



 ◇



 翼の音が聞こえる。

 東華門から少し離れた木の上に着地した仔蛟が注意深く辺りを見渡した。雨はもう止んでいるが、代わりに辺りには霧が漂う。


 一段と霧が濃くなり、再び晴れた時にそこにいたのは男だった。小型の姿からは想像もつかない長身は、並の男よりも頭半分は大きいだろう。


「はぁ……、妙な目にあった」


 沁み沁みとした声の主を追いかけてくるように、草をかき分ける音が聞こえてくる。


颯雨ソンユ様、颯雨ソンユ様ぁ〜。どこにいらっしゃるのですか……!」


 その長身を揺らめかせて木の影から姿を現せば、少年は飛び上がらんばかりの勢いで駆け寄っていく。


颯雨ソンユ様! ああ、よかったいらっしゃった……。いきなり千里眼様と順風耳様の御目耳を誤魔化せなどと……生きた心地がしませんでしたよ?」

「すまぬな。許せ小浪シャオラン。だが彼らは私の直状を読んでくれただろう?」


 小浪シャオランと呼ばれた少年は力が抜けたようにその場にへたり込む。


「そんなの……読むに決まってるじゃないですかぁ。貴方様は龍帝様の弟君で、今存在する龍たちの中で唯一天の御力を持つお方。やがてはこの地に住まうあやかしたちの頂点となる御方ですよ」


 龍帝としての皇位継承権は少々特殊だ。

 血族としての血の濃さと、その身に宿す属性の二つが重視される。

 基本的には皇帝の長子が継いでいく習わしではあるが、五行とも異なる天の属性を宿した龍が現れた時には、その龍が心身力全て成熟した時に新たな龍帝となる。

 数千年、数万年と続くこの世界の習わしであり成り立ちであった。


 が、向けられた颯雨ソンユと呼ばれた男は不満気に鼻を鳴らす。


「くだらん慣習だ。今の治世で十分に保たれているというのに、ただ天龍だからという一つで私が上に立つなど。兄君の治めている国を揺らがせるだけだろうに」

「そんなこと仰らないでくださいよぉ……」


 小浪の顔が歪む。颯雨とて自らに付き従い、慕ってくれるこの幼い侍従を泣かせたいわけではないのだ。

 故に別の、本題へと話を明白あからさまに逸らした。


「それより、此度の潜入では目的を果たすことができなかった。また日を改める必要がある。作戦を練るぞ」

「え……ええっ⁉︎ 颯雨様、そんな無茶な……」


 小浪の訴えは分かりやすく無視をして歩き出す。その後ろを早足で追いかけながら、苦し紛れに少年は呟いた。


「……というか、颯雨様が龍帝になったらあそこに忍び込むなんて真似をしなくても堂々といけるのに」

「何か言ったか」

「ひぇっ、何も言ってないです!」

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