第3話 龍帝の裏事情


 陰陽鏡の裏後宮。あやかしたちは龍妖宮、人々の間ではあやかし後宮と多種多様な呼び名がある。その御殿の美しさは、この世のものとは思えない。

 柱や壁にふんだんに刻まれた彫刻もさながら、夜の世界を美しく灯す焔は畢方ヒッポウや火の幽鬼が鬼灯へと灯したもの。


 かような妖しき美しさはここが異界であることを否応なく静麗ジンリーに思い知らせてきた。一方で、そこで働く女官たちは人ならざる風貌と共に豊かな情感を露わにしてくるのだ。まるで人のように。


「次の儀礼は菜翁の扇舞が必要ですねぇ。静麗ジンリー、司楽の準備はできておりますか?」

「はい尚儀。扇の依頼はすでに。音楽の方はこれから」

「分かりましたぁ。の時間に間に合うように気をつけてください」


 霊羊レイヨウである彼女と未の刻(昼1〜3時)をかけた言葉に頷く。後宮内で行われる行事は多く、尚儀局はいつも忙しい。


「……また笛子がない。尚儀、すみません。楽器庫へと行って参ります」

「はぁい。気をつけてね」


 忍び笑いをしている一角に一瞥を向けて足早に部屋を出る。先ほど笑いひそめいていた娘たちの誰かが笛子を勝手に隠すか壊すかしたのだろう。後宮で仕事を覚えてきた司楽の女官は皆自前の笛子を持っているが、私はまだ日が浅いこともあり楽器庫のものを借りている。


「まったく。女ってどこに行ってもこうなのね」


 昔から師傅の元であやかしを狩ることばかり学んでいたけれど、同い年の少女と関わったことがないわけではない。

 けれども定められた土地を持たず、彼女たちのように自らを着飾ることに関心を持たなかった私はどうにも彼女たちの会話や振る舞いに馴染めず。結果としてこのような爪弾きになってしまうことが多かった。


 まあ、いいのだけれど。背筋を正して通路を歩く。

 ここに来たのも彼女たちと仲良しごっこをするわけではない。裏後宮の最も賑わしくなる夜の合間は彼らの中に染まり、暁と黎明の時間に調査を進めればいいだけだ。



静麗ジンリー!」

「……翠花ツイファ


 こちらに手を振る少女の黒い髪は、けれども鬼灯の灯りに照らされれば美しき深緑に輝き。碧眼は見るものの魂まで吸い込んでしまいそうなほどに美しい。


 元は花魄カハク……幽鬼の魂がさらに無念として貌を成したものだというが、その言葉が信じられないほどに笑顔の似合う少女だ。

 元幽鬼でありながら婢女はしためではなく女官として取り立てられているのも頷ける。


「笛子を捜してたの?対の宮に置かれていたわよ」


 はいこれ、と差し出されたのはまごうことなき私が捜していたその笛だ。


「ありがとう……。取ってきてくれたの?ひょっとして」

「まあね。同じ木霊だってのによくもまあ陰湿な真似をするわよね、あの子ら」

「同じ木霊だからこそじゃないかしら。花の種別が向こうは椿、こちらは木犀なわけだし」


 口ではそう言いながらも理由は違うのではないかと思う。本能的に静麗ジンリーが異物だと理解して畏れているようにも、少なくとも彼女自身には見えた。けれども翠花ツイファはそうは思わぬらしい。

 こちらの手を遠慮なしに取って元の道を戻りながら、ゆっくりとした足取りで話し出す。


「同じ木霊なのはあるかもしれないわね。あの人たちはここ百五十年皇帝陛下の寵を得られないかと焦ってるけど、ちっとも進展がないっていうもの」

「皇帝陛下?それって龍帝の……」

「ええ、梓磊ズーレイ様よ。まだ梓磊ズーレイ様には皇子がおられないから、あわよくば自らこそが天龍を産んで皇后の座を射止めようと必死なわけ」


 陰陽鏡の裏後宮へ来る前に、おおよその情報は訊いていた。今代のあやかし達の帝は梓磊ズーレイという名の龍で、すでに千年位に就いているという。

 それだけ長く生きているのならさぞや子どもが多くいると思ったが、後宮には女官や宦官の見習いを除き幼子はいない。


「まさかそれで、新しく入ってきた私を警戒してるの?」

「そうそう。通過儀礼みたいなものだから。私が入ってきた時……大体今からだと三十年は前かしら? その時にもあれこれ嫌がらせされてたのよ。

 馬鹿らしいわよね。静麗ジンリーはそういうのにちっとも興味なさそうなのに」

「ええ、ちっとも」


 寧ろ、そのまま龍帝様とやらに皇子が生まれなければいいとすら思ってしまう。そうすればあやかしの血が……──。


「……そういえば、もしも龍帝様が頓死されたら次の皇帝は誰がおなりになるの?」

「まあ、物騒なはなしをしないでちょうだい」

「ごめんなさい。でもこんな話あなたにしか訊けないもの」


 明らかに顔を顰めた翠花ツイファは変わらず美人だ。それに優しい。舌を出して謝罪すればため息一つと引き換えに教えてくれるのだから。


「もう。仕方ないわね。龍の皇子で今皇位継承権があるのは弟君の颯雨ソンユ様よ。だから考えたくもないけど、もしもお隠れになったら次の冠を被るのはの方でしょうね」


 次は決まっているのか。どこか残念な気持ちになる。

 けれども翠花ツイファの酸い混じりのかんばせは、ため息混じりに言葉を続けた。


「でも颯雨ソンユ様は気まぐれというか。政務の手伝いもろくにしないで遊び呆けてるという話だもの」

「そんな方がいるの?」


 龍といえば、人の世の中では偉大で恐ろしきあやかしであり、到底只人が敵うものではないと言われるものだ。幼い頃はよく龍にだけは会いたくないと泣いて爸爸とうさまに笑われたものだった。


「ええ。とは言っても私も直接ご尊顔を拝見したわけではないのだけれど」

「それはそうでしょう。ここは梓磊ズーレイさまの後宮なのだから。いくら皇弟殿下だとしても足を踏み入れることは赦されないわ」

静麗ジンリーは真面目ね。木犀の木霊って皆そうなの?」

「違うと思うけれど……」


 そもそも静麗ジンリーは木霊ではなく人で、木犀を選んだのも香に特徴があり分かりやすいからだ。

 だというのに翠花ツイファの言葉を否定しきれなかったのは、静麗ジンリーが他の木犀たちについてなにも知らないからだ。

 木霊たちについてなにも知らないからだ。


 ──知らずとも、仕事はできる。妖狩かりは出来る。


 遠くで尚儀の喉を震わせるような声が聞こえてきた。


「まずい、もうすぐ未の刻よ。急ぎましょう、静麗ジンリー

「え、ええ」


 躊躇いなく駆け出した翠花ツイファの言葉に一拍遅れてから、黒髪に赤目の、木犀の花とは似ても似つかぬ少女は後を追いかけた。

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