第3話 こんな場所でもいかないと 一
五、六歩進むと西陽は完全に遮断され、じめじめしたほこりと汚泥の臭気がじわじわたちこめ始めた。顔をしかめつつ、まだほんの序盤だとも自分の心に言いきかせる。
もう少し距離を得ると、道と壁だけがどうにか見える程度にまで暗くなった。『原初の炎』や作りおきした道具はあるが、暗闇はやはり恐ろしい。いつ襲われるかもしれないというのもあるが、より根源的なもの……操りようのない存在からの視線を意識してしまう。光は、炎もそうだが、あくまで一時的にそれを払うだけだ。明かりをつければそれなりに安全にはなる。その代わりに誰かから注目される。
まだ周りが見えるのに任せて歩き続けたら、十字路にさしかかった。矢印は左を指している。
矢印は嘘をつかないので曲がらねばならない。それは、道中が一本道ではすまなくなったことを意味した。
これまでは、なにかあっても回れ右すれば少なくとも表通りに戻ることはできた。
曲がり角が一回でてきたからには、ニ回目も三回目もあるだろう。そうなったら、矢印を確認する余裕もないほど差しせまったときに無事に脱出できるかどうかおぼつかない。
せめて、深呼吸でもしてなにがしかの落ちつきをえたかった。この辺の空気はそれすら叶いそうにもない。
矢印は、やろうと思えば頭の中で念じることで光を放てる。それを明かりにしていくのが一番ましだろうが、他人から見えにくいようぎりぎりまで明るさを絞らねばならない。
こうして、うすらぼんやりした矢印を頼りに左折した。ほぼ同時に、この区画ごとふたをしたかのような暗闇がチェザンヌと矢印を包んだ。きゅっと唇を噛んで一歩一歩足跡を残していく。
いきなり左右が明るくなり、危うくつんのめりそうになった。道を仕切る壁に色とりどり、形も大きさも様々な光の塊が浮かんでいる。明らかに寝そべった裸体の女性を意識した桃色の光もあれば、緑色の液体を入れた青いカクテルグラスを見せつけるものもある。それらの一つ一つに、『本日のイチオシ嬢 ニュールが追加指名料金なんと金貨一枚 愛の唇亭』だの『憂さ晴らしは当店で決まり! 舶来ウイスキー、神秘の粉つきで一杯銀貨三枚』だのといった煽り文句が同じ光で添えられている。
宮廷にいた時分は、そうした商売をほとんど知らなかった。たまに聞きかじった話を自慢げに述べる若者はいた。悪趣味だと思って相手にしなかった。
今は、なんでもいいから正確な知識が欲しい。暗闇とは別な意味で怖い。
「兄さん、新顔かい?」
だしぬけに、矢印の脇からぬっと現れた台詞と顔に仰天した。叫ばずにすんだのは幸運だった。
「い、いいえ……何度か……」
しどろもどろになりながら棒読みで嘘をついた。
「へぇ、そうかい。女か? 酒か? 博打か? いやいや、男でも獣でもいいぜ。どこにでも案内してやる」
矢印に照らされた顔がようやくはっきりした。下卑た笑いを浮かべた五十がらみの男だ。チェザンヌの本来の姿と同じくらいの体格で、黒い髪をべたっと油かなにかでなでつけていた。
「いや、自分で探すので」
たち去ろうとするチェザンヌの左手首を、男は湿っぽい両手でがっと掴んだ。
「兄さん、これでも俺は界隈の案内役として……うぐわっ! ごぼぉっ!」
握られた手首に一瞬強い力がかけられたものの、口から血をこぼしてずるずる崩れる男はだらしなく両手を広げて仰向けに倒れた。
「縄張り違反め」
吐き捨てるような声と共に、また別なのが現れた。今度は女性で、一応若いのは若い。皮膚が緑茶色で小さな牙が厚ぼったい下唇からつきでている。鼻はつぶれかけていた。髪は黄色で短く、耳がとがっている。身体つきは痩せていて、背は高くも低くもなかった。そして、血のしたたる大ぶりなナイフを右手に握っている。
「兄さん、この辺りじゃあたいが顔役なんだ。やりとりは聞いていたよ。新顔じゃないって言ってたけど、嘘だろう?」
「い、いや……」
「照れることないよ。さ、お近づきに一杯やってじっくり互いを知ろうじゃないか」
どうせならさっさと絶縁したい。口にだすとどうなるかわからないから黙っているが。
「おやおや、恥ずかしがり屋さんだねぇ。いいよ、お酒はおごるから」
彼女はナイフをニ、三回素振りして血を飛ばし、鞘に収めた。それから、尖った爪をそろえた両手を滑らせるようにしてチェザンヌの左腕を緩く握る。
「は、離してくださいませ」
「あらあら、お忍びできたいいとこの坊っちゃんかい? いいねぇ、ますますくっつきたくなったよ」
もう限界だ。
脅すつもりで『原初の炎』を放った。髪の一部がちりちりに溶けながら焼けていく。
「な、なんだいこれ! わあああっ! あたいの! あたしの髪が燃えてる!」
ようやく離してもらった。
「こ、この野郎! 魔法かなにかであたいの髪を燃やしたな! ブッ殺してやる!」
「ごめんあそばせ」
つい地金がでた。やろうと思えばチェザンヌの方こそ相手を殺せるが、どんなあと腐れがあるかはっきりしないし構っていられない。道筋は矢印に任せ、チェザンヌは走りだした。
「待てっ! ズタズタにしてやる! 待てったらっ!」
そう言われて待つ者はいない。なにかにぶつかろうが跳ね飛ばそうが関係なく、当たるを幸い必死に地面を蹴った。こんなとき、カボがいてくれたら。相手を防ぎながら、的確な指示をだしてくれただろう。いや、違う。うまく相手をだしぬくところを見せたい。そして笑顔とともに認めて欲しい。いまは両方かなわなかった。
もう道のりも前後左右も関係ない。牙の生えた女性はまいたようだが、目の前には予想だにしない巨大な廃墟があった。
中庭にはひからびかけたゴミだらけの噴水があり、色あせてひび割れだらけのサメが頭を空にむけて据えてある。それをすかして、石を積みあげてこしらえた山があった。山にはおぼろげにアーチ型の看板がかかっている。
噴水を無視して山に近づくと、一応は看板が理解できた。渦を巻いた貝殻の口からイカのような触手が何本か生えた生き物を中心に『海か 山へ! バイル化 テ マパーク』とある。海から山へ! バイル化石テーマパークとあったのだろう。
化石の多くは絶滅した古代生物の名残りで、錬金術の素材になる。もっとも、さすがにすべての化石を把握するには至ってない。テーマパークなる施設が庶民の知的娯楽の場なのは知っていた。
矢印が指すままに、チェザンヌはアーチをくぐって短い通路を抜けた。両開きのドアに手を当てて押し開くと、ちょうつがいがきしむ甲高い音が鳴った。次いで、カビとほこりの臭気が新たに彼女の顔をしかめさせた。
室内は真っ暗で、たまに水のしたたる音がする。愉快で安全な場所とはこれまで以上にいいがたい。それでも、いくしかなかった。
うしろ手にドアを閉めつつ一歩踏みだすと、室内で響く自分の足音に肩がすくんだ。あわてて左右を見渡すが、影ばかりだ。
矢印の明かりを少し強めると、右手に発券場があった。左手には緑色をした細長い金属でできたカタログスタンドがあったものの、空っぽだ。
床は毒々しい青紫色のカビがところどころに生えている。小さな水たまりもあちこちにあった。
発券場と同じ側の壁と、床には『順路』と記した矢印が描いてある。チェザンヌのそれともさしあたりは一致していた。
百歩か、はたまた二百歩か。四つ五つ、順路に沿って無人の展示室を通りすぎた。天井からの水滴とは全く異なる、川のせせらぎが聞こえてくる。同時に、足がなにかを踏み砕いた。思わず小さな悲鳴が喉から漏れかかる。
足をどけてこわごわかがみこむと、骸骨だった。頭から足までほぼ一そろいある。人間のようだ。うつ伏せに倒れて亡くなったのだろうが、左太ももの骨がえぐられている。
一本道で、羅針盤の矢印はとにかく奥だ。骸骨の原因とご対面する可能性は否定できない。
用心を絶やさず、もっとよく辺りを観察した。似たような骸骨がもうニ、三ある。どれも、片腕がなくなったり肋骨が折れたりしていた。
そこで気づいた。動物にでも襲われたのか、急な病気にかかったのか。いずれにしろ、寝床でもないのに骸骨だけがあるのは少しおかしい。衣服や所持品のなにがしかは残るはずだ。
つまり、彼らの死に前後してそれらを奪った存在がある。敵は一種類だけとは限らない。
チェザンヌは、右手に『原初の炎』をまとわせた。こうしておけば、不意討ちにも対応できる。むろん、よほどバカでない限り相手も炎を目にして警戒する。
ぬきさしならぬ状況を意識しつつ、チェザンヌは改めて進んだ。せせらぎの音は更に大きくなり、ついには川にでくわした。
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