第10話 道づれ靴ずれ 六
残留魔法についてはカボから学んだ。あまりにも大規模な……たとえば、ある地域の天気を恣意的に変えるような……魔法を集中して使うと、魔力の残りカスがしばらくの間使われた場所に留まる場合がある。ほとんどは深刻な影響をださずにそのままなくなるが、練達の術者は自分の魔力を高める補助として使うことがあった。
「水夫頭に乗員からデマをださせないよう指示。乗客むけに説明資料の作成に着手、完成し次第印刷して全客室に配布するようメイド頭に連絡」
「私……まだなにも聞いていませんでした」
「ということは、資料とやらができる前に海賊が襲ってきたわけか」
カボは改めて室内を観察した。上甲板と同じように、チリ一つ落ちていない。
「海賊も、金目の物を奪って逃げたとは思えないな」
「航海日誌は五月二十三日で終わりにございます」
「じゃあ客室でナプタってドワーフを探すんだね?」
ルンだけは、正邪善悪に関係なく次の展開に目を輝かせている。
「なんとかご無事でいらっしゃるといいのですけれど……」
さっき自分自身が読んだばかりの航海日誌からはうさんくさげな雰囲気が漂う。しかし、だから死んでいいとまではさすがに思えない。
「航海日誌は俺が預かろう」
「お願いします」
チェザンヌはカボに手渡した。
船長室でできることはもう残ってなかった。ナプタを探さねばならない。
「クナムさんに道案内をお願いしたいですわ」
「かしこまりました」
「なにが湧いてくるかわからん……俺が先頭になろう。チェザンヌはうしろでクナムがまんなか」
一番安全な位置をクナムが得るのは妥当な判断だ。妥当なのだが……クナムの背中越しにカボのそれを目にすることになる。そんなことを取りざたしていい状況でないのは百も承知で、したがってチェザンヌは黙っていた。
心境とは裏腹に足が運ばれ、船長室をでて上甲板を経由してから客室区域に入った。
「ナプタ様はスイートをご利用でした。つまり、入って一番すぐのお部屋です」
利用料が高くて設備の整った部屋は、船首近くでもっとも上にある階層を使う。その点では長々と歩かなくて構わない。
アーチ状の長細い区域には、中央に下へ続く階段がまっすぐ……船首から船尾へ進むように……設けてあった。階段を挟んだ両側に通路があり、等間隔にドアがならんでいる。
貴族まで利用するだけあって、一つ一つのドアには凝った浮彫が施してあった。いずれも海水魚で、美しい鑑賞用の品種だ。
「ずいぶん派手だね」
きょろきょろと、ルンはドアからドアへ目をやった。
「お客様がご在室なら、浮彫もふくめてドアは青色です。ご不在なら青地にその魚本来の体色がでています。ただ、ご不便でしたらいずれかの色彩に固定しておくことも可能です」
どのドアも、色とりどりの魚が浮かんでいる。これまでのいきさつからして乗客がいるとはほとんど考えられない。
「こちらです」
クナムが案内したのはクマノミ……クラゲと共生するオレンジ色に白い縦縞の入った魚が彫られたドアだ。
「合鍵をどうぞ」
「ありがとう」
クナムがポケットからだした鍵をカボがあずかり、鍵穴にあてかけた。
「待ってくださいませ」
チェザンヌの言葉でカボは手をとめた。
「クナムさんとナプタさんはともかく、海賊はどうやってナプタさんのあとにすぐ入室できたのでしょう? オートロックではございませんこと?」
仮に誰かから鍵を奪ったとしても、開けるまでに時間差がある。ナプタがなにかをする余裕がまったくなかったとは考えにくい。
「さあ……なにしろ、あまりにも突然のことだらけで……」
クナムでなくとも同じような主張をする人間は多いだろう。否定のしようがない。
「その謎も、室内からヒントが見つかるかもしれない。まずはドアを開けよう」
カボは合鍵を鍵穴にさした。滑らかに施錠の外れる音がする。合鍵をクナムに返してから、カボはノブを回した。蝶番がきしんでドアが開く。
「誰もいない」
つぶやきつつ、カボは一歩踏みこんだ。窓からもたらされる日光はさわやかと表現してもいいくらいで、広くてふかふかのベッドには光沢のある白いシーツが折りめも鮮やかにかかっている。黒茶色をした円形のテーブルと同じ色の椅子にはシミ一つない。緑色のじゅうたんに、カボ以外の足跡はなかった。
チェザンヌ達もカボにならった。遺留品はおろか血痕すら見当たらない。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
ルンがいきなり大声をだし、チェザンヌはそれに驚いて同じくらい大きな声をだした。
「ル、ルン様! びっくりさせないでくださいませ」
「だって、急に頭が……」
「ルン、どうしてびしょぬれなんだ? なにかのいたずらか?」
「違うよ、水かなにかが降ってきた。おえっ、生臭いな」
「なにもなさそうですけれど……」
天井を見あげるチェザンヌに、いきなりカボは突進して自分自身ごと押し倒した。それこそ悲鳴を放つ暇もない。
その直後、天井からドサッと落ちてきた。一匹のカニが。プールのタコほどではないにしろ、その半分くらいには大きい。カボがなにもしなかったら、チェザンヌはカニに押し潰されていたかもしれない。
「あ、泡を吹いてる!」
いちはやくチェザンヌの肩から空中に逃れたルンが、カニの口を指した。同時に、カニは両方のハサミをクナムにむかって振りあげた。カボはチェザンヌからどいてたちあがり、チェザンヌは横たわったまま『原初の炎』を飛ばした。甲羅が赤黒くなっていく一方、カニの右ハサミは中途半端な勢いでクナムを襲った。うしろへさがろうとしたクナムは、背中をドアにぶつけてしまう。
「いやーっ!」
両手で頭をかばい、うずくまったクナムが悲鳴をあげた直後。ハサミは木っ端微塵に爆発した。
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