第二章 サメ! これが私の実力……!?
第1話 ひょうたんからサメ 一
竜が現れた次の日。
体調もすっかり回復し、その日の講義は終わった。いつもなら就寝となる。
「昨日はさすがに無理だったが、ささやかなお祝いをしたい。どうかな?」
「はい、お願いしますわ」
チェザンヌからしても、自分の潜在的な素質があれほどのものだとわかって嬉しいのは当然だ。
微笑しながらうなずき、カボは椅子から離れないままテーブルの上に右人さし指で小さく円を描いた。たちまち彼の親指くらいの大きさをしたグラスが現れる。すでに琥珀色の液体が入っていた。近づかなくとも、アルコールの香りがやってくる。
ソロランツ王国では、十五歳になれば大人である。チェザンヌも、果物ジュースにワインやブランデーを少したらして飲んだことはある。酩酊するのははしたないし、宮殿といえどもなにをされるかわからないから風味づけだけですませてきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ごく自然な流れでグラスを渡され、恐る恐るチェザンヌは受けとった。いよいよアルコールは強烈な印象をまきちらした。
「先生、これは……」
「生命の水だ」
満面の笑みを浮かべつつ、真面目くさった口調でカボは説明した。それから自分のために同じ要領でもう一つグラスをだす。
それがウイスキーという飲み物なのはまあ理解できるとして、問題はどのぐらい濃いかということだ。
「もちろん、たいした度数じゃない。五十だ。量もご覧のとおりだ」
チェザンヌの不安を見抜いて、カボは穏やかにつけ加えた。度数とはアルコールの濃度を示す単位で、仮に純粋なアルコールなら度数は百となる。軽めのワインで十二、三といったところか。普通のウイスキーで四十くらい。つまり、五十といったら究極ではないにしろ強烈ではある。
「素晴らしい素質に乾杯だ」
カボがグラスを掲げ、チェザンヌも用心しいしい彼にならった。グラスが空になっているのを、そのとき初めて知った。二人ともまだ口にしていない。
「よ、よ、酔って……よれろいし~」
「ルン!」
「ルン様!」
いつの間にか忍び寄っていたルンが、テーブルを舞台にゆらゆらたったりよろけたりしている。
「これは私のお酒ですよ」
少し強めに説教するつもりが、不細工に踊り始めたルンを見て吹きだしてしまった。
「まあ、改めてもう一杯だそう」
カボは、普段からルンに寛大だった。というより面白がって眺めていた。
「恐れ入ります」
律儀に感謝したチェザンヌに、三つめのグラスが与えられた。
「では」
「はい」
カボはぐいっと一飲みし、チェザンヌは唇を少しつけてほんの一滴口に入れた。辛く、熱いはずなのにかすかな甘味がある。それやこれやがどっしりと口の中にいすわり、やがて喉をすぎた。
「実のところ、これは俺が調合したんだが……味はどうだ?」
「大変美味ですわ」
生まれて初めて飲むウイスキーは、様々な意味で刺激に満ちていた。ほどなくして顔が赤くなっていくのを実感する。
「今夜は遅いし、飲みすぎはよくない。それを空けたら明日に備えて寝よう」
五十度ものウイスキーを生徒に勧めたくせに、変なところで生真面目なコボだった。
「はい、ご馳走さまでございます」
残りを一息に飲み干し、チェザンヌはグラスをカボに返した。
空になった三つのグラスを自分の前に集め、カボは軽く右手をかざした。音もなく三つとも消えた。
翌朝。
いつものように、チェザンヌはソファーで目覚めた。
宮殿にいたとき、割り当てられた部屋でソファーを使ってうたた寝したことはある。そんな折りにいきなりベッドはやめてソファーにしろといわれたら、たとえ第五王子のマギルスからであっても笑ってしまっただろう。
庶民にはソファーどころか壁や床に穴の開いた家で住んでいる人々も山ほどいるのを、ここにきてカボから聞かされ初めて知った。
宮殿で貴族が読む書物には、貧しいとか困窮とかいう単語はあっても具体的な描写がなかった。関心をもって読むどころか、難しすぎて理解できない。いや、他の部分まで読まれなくなる。だから、著述家達は省くようにしていた。
もっとも、だからといって庶民の全てを知ったと考えるほどチェザンヌは浅はかな人間ではない。この小屋をでない限り、ただの物知りな元令嬢にすぎないのは彼女自身がよく理解していた。
「おはよう、チェザンヌ」
ベッドからでたカボが挨拶した。髪が寝癖まみれなうえに目は半開き。いつものことだがチェザンヌよりはるかに朝が弱い。ちなみにベッドの周りには簡単なカーテンが据えられ、ささやかながらもたがいのプライバシーが尊重されるようになっている。
「おはようござい……」
挨拶を返そうとしたチェザンヌは、かすかに残っていた眠気が吹きとんだ。令嬢風に、左手で顔の下半分を覆って少しうつむき加減になってからかすかに肩を揺らす。
彼の両目は、その周りの部分ごとそっくり入れかわっていた。誰かが肖像画を切り貼りしたかのように、青い瞳と長く金色のまつげを備えた美少女になっている。もちろん、他は元通りなので狂った似顔絵のような惨状をもたらしていた。
「なんだ? なにがおかしい?」
美少女もどきが真剣に聞いてきた。
「ご、ごめんあそばせ……先生、なんのいた……」
また笑いがこみ上げてきた。台詞にならない。
「俺にはさっぱりわからないぞ」
「先生……先生……」
首をひねりながら、チェザンヌを放っておいて洗面所にむかったカボは壁の鏡を見るなり爆笑した。
「わはははははは! なんだ、この顔!」
「先生がなさったいたずらではございませんの?」
ようやく落ちつきが戻り、チェザンヌはカボの言葉に潜む怪しさにどうにか気づいた。
「そんなわけな……わはははははは! あはははははは!」
鏡からチェザンヌに目を移したカボは、彼女の顔がおかしくてたまらなくなった。
「まあっ。いくら先生でも失礼ですわよ」
「い、いや、しかし……」
礼儀もなにもなく腹を抱えるカボを経て、洗面所の鏡がある。怒るよりも不審な気持ちが勝り、チェザンヌは鏡に近づいた。
彼女もまた、カボと同じ部分が入れかわっていた。藍色の目に桃色のまつげ。カボの瞳と髪の色だ。カボの方はチェザンヌの瞳と髪の色になっている。つまり、互いの目の部分を交換した形だ。
「先生、そろそろ元に戻した方がよくはございませんこと?」
「俺だって覚えがないよ」
カボの回答が、笑いごとではないのを悟らせた。こんなふざけた事態を起こすのは一人しかいない。
「ルン様。どこです? 伺いたいことがございます」
我ながら冷ややかな口調で、チェザンヌは小屋の中全体に呼びかけた。返事はない。
「どこか、外にでたようだ」
「帰るのを待ちましょうか?」
「いや……訓練かたがた探しにいこう」
「こんな姿で外出しますの?」
「ウサギやカラスに眺められても構わないだろう?」
カボは常に合理的だった。
「いき違いになったら困りますわ」
「こうしておく」
右手を宙で軽く回したカボは、右手のひらに大きなクモをだした。もぞもぞ動いている。
「ハエトリグモの巨大化仕様だ。網は作らない。ガブッと一噛みで死にはしないが麻痺はする。それで速やかにクモは消える。あとは、麻痺したルンを適当に介抱すればいい」
「先生……失礼とは存じますけれど、おぞましいですわ」
チェザンヌは両手両足をきゅっとすくめてガタガタ震えた。
「習うよりなれろだ。俺達には牙をむかない」
カボは、手のひらを逆さにしてクモを床に落とした。音もなくクモは歩き、テーブルの真下から裏へ飛びはねてへばりついた。危うく気絶しそうになるのを、チェザンヌはどうにか持ちこたえた。
「では、探しにいこう」
まだ顔も洗ってないが、正直なところ速やかに顔を修復したい。二人とも利害の一致にやぶさかではなかった。
「でも先生、どうやって探しますの?」
「心配無用だ」
カボは、クモと同じ要領で船乗りが用いる羅針盤のような品をだした。
「それをポケットにでも入れて、頭の中でルンの姿を想像しろ」
カボから羅針盤を受けとり、チェザンヌは言われたとおりにした。目の前に、黄色く大きな矢印が浮かぶ。
「先生、黄色い矢印がでてきましたわ」
「うむ。羅針盤そのものは、未熟な錬金術師でも使える。距離は表示されているか?」
「いいえ」
「熟達すればそれも現されるようになる。さしあたり、その矢印の先にルンがいる。道案内は君がするんだ」
「かしこまりました」
こうして二人は出発した。
一時間もたたずに、ルンは見つかった。木に囲まれた地面をでたらめに歩きまわっている。彼女の上半身は完全に石化しており、はたから眺めても驚きと恐れがありありとしている表情を顔に浮かべていた。下半身は生身のままで、それが支離滅裂な動きを続けていた。
ルンがそんな状況になった理由は、少なくともその一部はすぐ近くにいた。
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