第10話 在と不在 三
カボからもたらされたものは、正確な理論と実践に支えられている。なおかつどうして必要なのかもはっきりと掴めた。
とはいえ、タイミングもあっただろう。いくら教え方がうまいからといっても、宮殿にいるときならこれほど夢中になったりはしなかったはずだ。皮肉なことに、絶体絶命となっているからこそ……また、チェザンヌ自身がそれを実感しているからこそ……学びにつながっている。
ただ、一つだけ口にできない欲求があった。本を読みたい。誰かに共感されたり同情されたりしなくていい。文章のなかに我が身を埋めるようなあの感触こそが癒しであり活力だった。こういうときこそ本から救いを得たいのに、それははるか彼方に去ってしまった。
「よく理解できましたわ、先生」
ささやかな欲求不満を別個として、彼女は事実を述べた。
「では実技だ」
危うく叫びそうになった。もう夜もふけているし、そもそも知識と知識の実行は意味が違う。
「というのは半分冗談で、錬金術師としての適正を試す」
それは座学でも繰り返し強調された。ここでいきなりとは思っていなかったにしても。
カボは、座ったまま右の手のひらを開いてチェザンヌにも見えるよう天井に向けた。ふだんは他人と変わらないのに、藍色に輝く半透明の立体像が浮かんだ。チェザンヌの肘から指先くらいまでの背丈をした女性で、若く髪が長い。はっきりした顔だちまではわからない。ただの虚仮おどしでないのは当然として、抑えられてはいるものの非常に強いエネルギーを持っているのがチェザンヌにも伝わってきた。
カボに促されるまでもなく、チェザンヌも同じようにした。彼と違い、まだなにも現れてない。不覚にも手が震えた。
この儀式で、チェザンヌが自立した錬金術師になれるかどうかが決まる。それは座学で最初に教えられた。チェザンヌの手のひらになにも浮かばなければ助手にしかなれない。ほとんどの志願者はそうなる。浮かんだら浮かんだで、どんな生き物かで使える術に様々な特徴が方向づけられる。カボのように若い人間の女性なら寿命や若さにちなんだ術が中心になるし、魚なら水にちなんだ術が中心になる。一方で、錬金術師なら誰でも共通して使えるものもある。いずれにせよ、たった一回で全てが決まる。
「もっと手を近づけて」
「は、はい……」
指先同士が触れるか触れないかまで右手を伸ばすと、チェザンヌは左手で頬を冷やしたくなるほど身体が赤く熱くなっていくのを自覚した。
「神々から盗まれた原初の炎にかけて、我が内なる炎を相手に移せ」
チェザンヌの気持ちを知ってか知らずか、おごそかにカボは命じた。彼の手のひらに浮かぶ藍色の女性は、カボから離れてチェザンヌの手に移った。それから上半身をかがめ、まるで地面に埋めこまれた物を引き抜くように両手でなにかを引きあげた。同時に、チェザンヌの目の前ががらりと変わった。
カボも小屋もルンも消え、噴火する火山とひっきりなしに流れる溶岩が現れる。チェザンヌは素足のまま溶岩の上にたっていた。清らかな川の流れに足を浸すように、火傷どころか心地よさすら感じながら。
と、地面が揺れた。身体を前後左右に揺さぶる重々しい振動がしばらく続いたかと思ったら、地割れが起きて滝のように溶岩が流れ落ちていく。それをさかのぼるように、一頭の竜が翼を羽ばたかせて昇ってきた。しかも、頭が二つある。チェザンヌでなくとも王家の紋章に描かれたそれとわかる。いきなり予想だにしない存在が現れ、チェザンヌは悲鳴さえだせずに大きく目を見開いた。
「素晴らしい! は、初めてだ! 信じられん!」
カボが図らずも上ずった声を放ち、チェザンヌは我に返った。授業中の風景が戻ってきている。いや、明らかに以前と異なる。
チェザンヌの右手のひらからは、青い双頭の竜が浮かんでいた。大きさや半透明なことなどはコボのと変わらない。それより、カボがこれほど興奮することこそチェザンヌからすれば初めてだ。
竜は極めて稀にしか得られない。錬金術師が千人いて、やっと一人くらいだ。まして双頭の竜は、千人に一人どころか百万人……ソロランツ王国の全人口に匹敵する……に一人くらいだ。
竜の力は全てに勝り、あらゆる錬金術を会得できる。ただし、いいことづくめではない。成長が極端に遅い。誰でも使える基本的なものは別として、少し込みいったものになるとすぐに差がでてくる。他の術者が十も二十も術を学んだくらいのところでようやく一つか二つだ。むろん、一度使えるようになった術は次元が異なる強さや完成度を誇る。このため、竜を帯びた錬金術師の中には陽の目を見られずに没落した者もいる。ましてチェザンヌは追放された人間だ。
「なんとか……先生の技を受け継いでいけそうですわ」
現実がいまひとつ飲みこめず、チェザンヌはごく控えめに言った。と、そこでめまいがした。
「おっと、いかん。術が強力すぎてかなり体力を消耗したようだな。少し休むといい」
「ありがとうございます」
こういうときの親切は素直に受けいれたほうがいいと、チェザンヌはすでに学んでいた。便利な反面、錬金術は強力なものを使えば使うほど体力を激しく消耗する。その感覚も学んでいかねばならなかった。
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