第8話 在と不在 一 (スイシァ視点) 

 ブルギータ家が滅亡してから数日後。


 『赤いバラの間』では、機嫌の冴えないスイシァが左右の眉根で額にシワを作っていた……かつてチェザンヌを映していた鏡の中で。鏡の中には彼女しかいないが、半歩離れた右斜めうしろには若いメイドが控えている。チェザンヌの世話係とはまた別人だ。本棚もそのままで、これには触れようとすらしていない。


 メイドは自分の専属だからよいとして、部屋が気にいらない。チェザンヌが使っていたからだ。別な部屋をマギルス王子にねだったものの、やんわりと断られた。


 マギルスは第五王子であり、王家の中では大して地位が高くない。それでもスイシァは死力を尽くして攻め続けた。決定的だったのはブルギータ家の謀反である。それがでたらめなのは、当のスイシァ自身が知っていた。なにしろ彼女が証拠を捏造したのだから。もしそれが明らかになれば、火あぶりにされるのは彼女の方だ。それを考えると、どうせならもっと高い地位の王子を狙ってもよさそうなものだ。


 鏡から目を離し、壁際に掲げられたカレンダーをちらっと眺める彼女は少しだけ頬を緩めた。薄茶色をした、クルミ材でできた台座に見開きの本のような形で今月……五月と来月の日取りが両ページにそれぞれ記されている。


 六月二十日。そこにはわざわざ金箔で作った小さな星が貼りつけてある。二つも。あと、ちょうど一か月でスイシァとマギルスの誕生日が同時にくる。それは、彼女にとってめでたい偶然どころでない意義を持っていた。


 自分の感情がいつも不安定なのはわかっている。その原因も。チェザンヌと宮廷で知り合ったばかりの頃、侍女達の噂話が漏れ聞こえてしまったのだ。死んだはずなのに禁忌の力で生き返ったと。その証拠に、左脇の下に青い鎌の形をしたアザがあると。


 あのあと、自分の部屋で左腕を恐る恐る上げて確かめたときの気持ちは一生忘れられない。まさにそれはあった。それまではわざわざ意識したことなどなかった。もはや彼女はアザの奴隷だ。他人知れず必死に様々な情報を集め、ついに解決策が得られた。つまり、自分より身分が高い、誕生日が同じ男性と肉体的に交わること。その矢先、マギルスとチェザンヌの婚約が内定された。


 カレンダーから、床を隔てて反対側の壁には一枚の絵が飾ってあった。燃え落ちつつある屋敷を背景に、打ちひしがれ惨めなことこの上ないチェザンヌの姿が現実さながらに描かれている。それは、ますますスイシァの気持ちを沸きたたせた。


 ドアがノックされた。小さく返事をすると、メイドがドアまで歩いて開けた。


「スイシァ様。タニアン殿下がお呼びでございます」


 タニアンは、序列第五位のマギルスどころではない。れっきとした国王の長男にして王太子、次期国王である。三十代に手が届くところまできているが、最初の婚約者を数年前に事故で亡くしてからかたくなに独り身を貫いている。


 そのタニアンがスイシァを呼ぶのは、実のところ初めてだった。考えられる可能性は二つ。一つは婚約者披露パーティーの打ち合わせ兼面通し。もう一つは彼女の悪事がバレたこと。しかし、後者ならこんな悠長なやり方はしないだろう。なにしろ、戸口でお辞儀しているのはただの侍女だ。むろん、貴族の出身ではある。遠縁とはいえ王族にも連なる令嬢を呼ぶのにメイドは使えない。逆にいえばいつもの作法通り。


「わかりました。ご案内下さい」


 鏡から離れるようにたちあがったスイシァは、部屋をでた。


 一口に宮殿といっても、誰が使うのかでがらりと異なる。青や緑のメノウをモザイクにはめた床にはふかふかの赤いじゅうたんがまっすぐ敷かれ、両側の壁には炎をあげるろうそくをさした銀の燭台が間隔をひとしくして並んでいる。そして、天井のシャンデリアは数百本もの筒状の水晶を内側から照らすことで淡く美しい青白い光をもたらしていた。


 王子の部屋を示す扉は、松からできている。廊下側の面には、国……すなわちソロランツ王国の紋章である舌をだし直立する双頭の竜が横向きで浮き彫りされていた。もっとも、正式には備わっているはずの大きな翼ではなく申し訳程度のそれしかない。完全な翼を持つ双頭の竜は国王だけが使える。


 侍女は、竜の頭上にあるノッカーを叩いた。


「誰だ」


 若い男性の声がする。遠くからなら何度か聞いたことがある、タニアンのそれだ。いかにも威厳と活力に満ちている。


「失礼致します。スイシァ様をお連れしました」


 侍女が扉越しに告げると、すぐに戸口が開かれた。


 見ると聞くでは大違い。陳腐な言葉も自分で体験するとまた別な説得力を感じてしまう。


 戸口から目にする王太子ことタニアンは、角張った体つきと荒削りな輪郭、軽くカールのかかった赤茶色の髪……それら全てが筋肉の一言で象徴されてしまいそうな人物だった。青葉色の瞳は自分にも他人にも厳しく深刻で、なにもかも見抜いてしまいそうだ。


 武術に打ちこむ人間は、えてして書物嫌いが多く単純な性格が目だつ。タニアンにかんしては、そんなステレオタイプな把握など有害無益なのがすぐわかる。

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