第3話 森で得た闇と光 一

 それから数時間。


 ハイヒールはとうに捨てられ、靴下を身につけただけの足でさ迷う内に森の中をさ迷っていた。


 ブルギータ家に限らず、ある程度以上格の高い貴族は街から離れた場所に邸宅を構えるのが普通だった。街中にはなにか事業をするための職場を構えることもあるが、あくまでも召使いや家来がやることであって貴族やその家族が直接そこで働いたり寝泊まりしたりするわけではない。ましてチェザンヌ自身は実家と宮殿以外に知っている世界はほとんどなかった。読書をたしなんでいるおかげで、他の同世代の令嬢よりは物知りなくらいだ。


 どのみち街にいきつけたところで、今の立場や格好ではマフィアや犯罪者の餌食になるのがオチだったろう。その意味では……本人がこれ以上自分の姿を人目に晒したくないという気持ちからくるものであれ……森に進んだのは必ずしも的外れな判断とはいえなかった。


 そこかしこに意地悪く突き出た木の根のコブや闇に紛れて待ち構えるイバラのトゲなどで、豪華だったドレスはもはや原型を留めない状態になっている。しまいには、どうにか本人の肌を隠しているだけの状態に過ぎなくなっていた。ひっきりなしに転んだりすりむいたりしたせいで足は生傷だらけ、とうに感覚がなくなっている。両手もそれに近い。なにより空腹だ。


 パーティーで主賓がガツガツ食べるわけにもいかず、さりとて出席前に飲み食いをし過ぎて手洗いにいくのもまずい。だから、昼下がりにクッキーを数枚つまんだのが最後の『食事』だった。これまでは神経がささくれだってあまり感じずにすんでいたのに、ケガが増えると次第に体の動きが鈍りそれにつれていやでも胃が鳴り始めた。はしたなさに一人赤面し、もはや誰も自分のことを構うはずがないと思い直して 自嘲しながら苦笑する……そんな彷徨ほうこうも限界が近づいてきた。


 フクロウの鳴き声を耳にしながら、手近な木の幹にもたれかかり漠然と夜空を見上げる。道具も力も知識もない人間が生き延びていける場所でないのはわかりきっていた。せめて、無残な姿を人前にさらさなくてすみそうなことだけは救いか。


 その一方で、あまりにも理不尽な仕打ちに対する怒りもふつふつとわいてきた。スイシァの冷酷というも非道なやり口には復讐しないと気がすまない。両親の謀反云々の真相も知りたい。


 スイシァは、わざわざ打ちひしがれた自分の姿を絵に保存してどうしようというのだろう。毎日踏みつけでもしてチェザンヌへの恨みを晴らし続けるのだろうか。仮にそうなら人間性を負の意味で超越した愚かしさでもあり執念ともいえた。だいたい、チェザンヌがそこまで恨まれる筋合いはないはずだ。


 そんな思索も次第に鈍ってきた。目の前にスイシァがいれば遠慮なく殺して彼女の肉を貪り食っているかもしれない。自らの心に湧き上がった恐ろしい衝動に、チェザンヌは身震いした。人間、追い詰められると理性や体裁などはどうでもよくなる。


 延々と鳴り続ける胃袋が、ついに刺すような痛みを送りつけてきた。その辺の雑草でもむしって口にしようかとまで追い詰められた時。闇の一部からかすかな光が上がった。それをどう扱うかでチェザンヌの運命は決まる。確かめにいってなにかまずいことが起こったとしても、もはや身を委ねるほかはない。


 それでも、彼女はなけなしの体力をかき集めて身体を起こした。光に近づこうとすると、想像していたよりはずっと遠くにあった。一歩ごとにめまいがするほど疲れ切ってはいたものの、とにかく光の源に至った。


 そこには、文字通りおとぎ話でしか見聞きしたことのない生き物がいた。見た目は十歳くらいの女の子のようだが、背中からは蝶のような羽根が生えている。背丈はチェザンヌの肘から指先くらいまでしかない。衣服は白く薄い布めいたものが巻きついているだけだ。一言で表現するなら妖精である。彼女はウエーブのかかった短い赤紫色の髪を振り乱し、両足に絡みついたつるをほどこうと躍起になっている。


「あのう……もし……」


 遠慮がちに呼びかけると、妖精は手を止めてまじまじとチェザンヌを見つめた。チェザンヌも先方をそうした。下ぶくれの顎に可愛らしい目鼻だちをしている。


「ぎゃあああぁぁぁ! お化け!」

「違います! 失礼ですわ!」


 妖精にお化け呼ばわりされるとは。怒りは、一時的にせよエネルギーになり得る。えかかった手足が多少は動くようになるのが自覚できた。


「だ、だって服はぼろぼろだし髪は落ち葉まみれだし手足は傷だらけで靴もはいてないし。自殺した落ちぶれ貴族かなにかでしょ?」


 中途半端に正確な指摘で更に怒りが高まり、チェザンヌは言葉がでなくなった。


「あ、あなただって妖精じゃありませんか」

「そうだよ。お化けじゃないよ」


 やっとのことで言いかえしたら、即座に言いかえされた。


「私もお化けではございませんわ!」

「ならあたしを助けてよ! このままだと食べられちゃう!」

「え……?」

「見たらわかるでしょ! 食虫植物! 引っ張りこまれかけてる!」

「そんな、虫じゃあるまいし」


 自分の指摘におかしくなり、つい吹きだしかけた。


「笑いごとじゃないよ! 早くしてよ!」


 どうせほかにやることもなし、チェザンヌは手で蔓を引きちぎった。


「あーっ、助かった。ありがとう」

「どう致しまして」


 チェザンヌの返事が終わるか終わらないかの内に、ぼろぼろなドレスが元通りになり靴が……壊れやすいハイヒールではなく頑丈で歩きやすいスニーカーが……足を包んだ。


「妖精はちゃんとお礼を形で返すよ」


 自慢げに胸をそらせた。


「まあっ、とても嬉しいですわ。ありがとうございます」

「どう致しまして」


 妖精はおどけてチェザンヌの口調を真似た。それまでの緊張がほぐれ、チェザンヌは左手を口に当ててくすくす笑った。途端に腹が鳴った。


「ごめんあそばせ。お腹の躾が足りませんの」

「じゃあ、そのネックレスと引き換えにご飯をだしてあげるよ」


 無邪気な提案に、チェザンヌは考えこんだ。

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