第26話 赤鬼

 すぐに開けた場所に出た。

 奥の壁には禍々しい祭壇が作られており、そこには血の匂いが充満していた。

 不利を悟った小鬼が、捉えていた生贄を全て捧げたようだ。

 鹿、猪、狸が横たわり大量の血を流していた。それが全て祭壇の方へと流れていく。

「……や」

 小さく掠れた声が、クオンの口から漏れた。

 横目で見ると、彼女は小さく震えていた。

 志人ゆきひとはクオンを気にしながらも、儀式を続ける小鬼に駆け寄る。

 妨害しようとする小鬼をナイフで切り伏せ、呪文を唱える最後の一体に迫る。

 足元で何かが動いた。

 危険を感じた志人は、大きく横に飛ぶ。

 鹿の死体の陰に隠れていた小鬼の手が空を切った。

 着地した志人は、背後に息づかいを感じて振り向きざまにナイフを振るう。

 彼の首筋に噛みつこうとした口は標的を失い、派手な音を立てて噛み合わされた。

 志人の一撃は、その足を軽く切る事しかできなかった。

 怯む事なく、二体の小鬼が志人に迫る。

 一体はナイフで屠るが、左からくる小鬼には対応が間に合わない。

「ぐあっ」

 左腕に噛み付かれ、志人が呻いた。

 突き刺さる牙が、鋭い痛みを与え続ける。

「志人様!」

 我に返ったクオンが駆け寄るが、志人は小鬼の首にナイフを突き刺してから壁に叩きつけた。

 小鬼の身体が地面に落ち、動かなくなる。

 その傍らに、志人の血が滴り落ちた。それが獣の血と混ざり、流れていく。

「すみません。大丈夫ですか?」

「痛いけど大丈夫。祭壇の浄化、任せていいか?」

 志人が腰に付けたポーチから包帯を取り出すと、クオンはそれを受け取って素早く腕に巻いた。その上から回復の呪符を貼り付ける。

 そこで二人は失態に気がついた。

 儀式を続けていた最後の小鬼が、手にした短剣で祭壇に張られた縄を切る。

 悪臭を凝縮したような黒い気が、広間の中央に生まれて形を成していく。

 志人の全身に鳥肌が立った。

 クオンも全身を振るわせている。極限状態にあるのか、狼の耳と尻尾が生えていた。

「クオン、しっかりしろ!」

 両肩を掴んで揺さぶると、焦点が合わなかった赤い瞳が志人を捕らえた。

 そうしている間にも、黒い気は人の形に成り始める。

「ダメです。逃げましょう!」

 切羽詰まったクオンの言葉に、志人は答えずに走り出す。

 出口は黒い影の後ろにあった。

 その影に近付く事など出来ない二人は壁伝いに走る。

 あと数メートルまで走った所で、クオンが急に足を止めた。

 その目の前を、轟音が通り過ぎる。

 大木を思わせる腕が、壁に突き刺さっていた。

 二人は慌てて距離をとる。

 三メートル程の巨大な赤鬼が、二人を見下ろしていた。

「聞いてないぞ、こんなの」

 怯える志人に、赤鬼は口の端を吊り上げて笑った。その拳が、ゆっくりと振り上げられる。

 志人はすぐに回避行動に出るが、クオンはその場を動けずにいた。

「クオン!」

 志人の叫びに、ギリギリのところで身を交わすクオン。

 普段の冷静さを失った彼女に、志人は歯噛みする。

(トラウマか)

 状況は、クオンが家族を失った時と酷似していた。冷静でいられるわけがなかった。

 赤鬼は動きが鈍いクオンに狙いを定め、何度も拳を打ちつける。

 普段なら容易に避けるだろうが、彼女の身体は鉛を纏ったように重かった。

 それでも紙一重で避けて、立ち上がる。

 志人は少しでも注意を引こうと、小鬼用に準備していた呪符を放つ。

 赤鬼のふくらはぎに当たると炎を撒き散らすが、火傷の痕すら残らなかった。

 志人は舌打ちして次の一枚を飛ばす。

 中級の鬼が出た時のために用意していた強力な呪符は、赤鬼のくるぶしに当たると、足首から下を凍り付かせた。

 しかし赤鬼が動きを止めたのは一瞬だった。

 気怠そうに足を持ち上げると、氷は簡単に砕けて散っていった。

「やるしかないか」

 志人は胸ポケットから複数の呪符を取り出して、その一枚を自分の胸に貼り付ける。

「クオン、使うぞ!」

「いけません! 志人様!」

 クオンが叫ぶが、構ってはいられなかった。

 

「身体強化の呪符なんて、最強じゃん」

 幸子から呪符の本を借りた志人は、テンションが上がっていた。

「一時的に強化されますが、身体への負担が大きいので現在では使用されていません」

 それに対してクオンの反応は冷たかった。

「効果二倍は負担も大きいだろうけど、ここを書き換えれば強化率を下げる代わりに負担も減らないかな」

 志人の言葉に、クオンは目をぱちくりさせていた。

「呪符ってさ、マクロ機能の集合体みたいなものじゃん? ここが属性、こっちが強さ、ここが範囲」

「書かれている内容までは理解していませんでしたが、呪符の改変は禁じられています」

 志人は厳しく答えるクオンに説明を続けたが、いい顔はされなかった。

 それでも好奇心をおさえられなかった彼は、こっそり改造した身体強化の呪符を使ってみた事がある。

 確かに数分間動きは良くなるが、効果が切れると全身を激痛が襲い動けなくなってしまった。

 もう二度と使うまい。

 そう思いながらも、切り札として忍ばせていたのだった。

 

 胸に貼った呪符が、志人の全身に力を送る。

 五感が研ぎ澄まされる。

 異変に気付いた赤鬼が、ゆっくりと振り返った。

 その視界から志人が消える。

 赤鬼が痛みに自らの足を見ると、ふくらはぎが半分程切れていた。

 それを意に介さず、赤鬼は志人に向き直る。

 祭壇から溢れ出た瘴気が赤鬼の足に纏わり付き、すぐさま傷を消した。

「クオン、祭壇を!」

 志人の言葉にクオンが呪符を取り出し、力を込める。

 志人は再度赤鬼の足を切り付けるが、すぐに傷が塞がった。

 打ち付けられる赤鬼の拳を避け、その腕にナイフを突き立てる。

 その傷も、すぐに修復されてしまった。

「埒が明かねぇ!」

 毒付く志人から視線を外し、赤鬼はクオンにその目を向けた。

 祭壇を無力化しようとしている事がバレたようだ。

 志人は舌打ちして胸ポケットに手を入れる。

 その中の一枚をナイフのグリップに巻き付けると、力を込めた。

青龍刀せいりゅうとう飛沫しぶき!」

 叫んでナイフを振り下ろす。

 間合いの外だったが、ナイフの刀身から伸びた水の刃が赤鬼の右足を切断した。

 片足を失って、赤鬼はそのまま倒れ込む。

 衝撃が、洞窟全体を揺らした。

 土埃が舞う中、志人は続けてナイフを振るう。

 胴を薙ぎ、腕を落としたところで志人は急激な脱力感に襲われた。

 まだ未熟な志人にとっては、青龍の力は強すぎた。

 意識を失う直前、瘴気が赤鬼の傷口に向かうのを見て、志人は絶望した。

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