第14話 覚悟

 志人が家に着いたのは八時を回った頃だった。

 予想通り三時間走りっぱなしだった彼は、玄関に上がったところでうつ伏せに倒れた。

「お帰りなさいませ。志人様」

 クオンがすぐ側に膝をついて声をかけてくる。

「ただいま」

 答えて仰向けになった志人の顔を見て、彼女の表情が強張った。

「どうされたのですか?」

「三時間走らされた」

「いえ、そうではなく」

 珍しく狼狽えた視線の先に気がついた志人は、顔に貼られたガーゼを取りながら、

「体育の授業で、ちょっとね」

 と言って笑って見せた。

 全てを察したクオンが慌てて部屋へと駆けていく。戻ってきたその手には救急箱が握られていた。

「まずは消毒を。じゃなくて先にお風呂でしょうか」

 慌てて箱を開けたり閉めたりしている姿がおかしくて、志人は思わず吹き出した。

「笑い事じゃありません」

 強めの口調で言われて、志人は笑いを噛み殺した。

「ごめん。クオンのそんな姿、初めて見たから」

 そう言って身を起こす。

「とりあえず風呂に入るね」

 心配そうに脱衣所までついてくるクオンを制して、志人は服を脱ぎ始めた。

 

 風呂から出た志人は、すぐにクオンの治療を受けた。

 傷口に消毒、ガーゼを当てられただけでなく、胸と背中に呪符を貼られた。

「これは?」

「傷の治療と疲労回復の呪符です」

 答えたクオンはいつもの無表情だ。

 だが、志人はその奥にある怒りに気付いていた。

 浴衣を着直しながら彼女に疑問の視線を向けるが、クオンはすぐに夕食の準備に取りかかる。

 居心地の悪さを感じながら、用意されていたお茶を啜る。

 クオンは手早く配膳を終えると、志人の前に腰を下ろした。

「どうぞ」

「いただきます」

 腹が減っていた志人は、冷める前に食事を終える事にした。

 今夜の生姜焼きも丁度良い味付けで白米が進む。クオンの料理はどれも美味しい。

 だが、添えられた山菜を口にしたとたん、志人の箸が止まった。

「これって」

「薬草の一種です。美味しくはありませんが、どうか残さないようお願いします」

 志人は仕方なく生姜焼きと一緒に口に入れて味を誤魔化す。苦味が強いが、配分を間違えなければ食べられないものではなかった。

 それ以降は言葉を交わす事もなく食事を終えて、お茶を飲みながら一息つく。

「クオン、機嫌悪い?」

 食器を片付けている背中に声をかけるが、すぐに返事は返ってこなかった。

 彼女は手早く洗い物を終わらせると、志人の向かいに座って彼を見つめた。

「初日からここまで酷い事になるとは思いませんでした」

 あまり表情は変わらないが、わずかな変化から怒りと悔しさが感じ取れる。

「俺も。覚悟はしてたつもりだけど、正直ここまでやるかと」

 そう言って苦笑いを浮かべる志人。

「志人様」

 クオンは主人の名を呼んで、その目を真っ直ぐに見た。

 真剣な眼差しに少し怯みながら、彼女の赤い瞳を見つめ返す。

「もう一度確認しますが、陰陽師になる覚悟はできていますか?」

 問いかけに、志人は即答できなかった。

 クオンの頬についた傷に視線がいってしまう。

 陰陽師として妖と戦えば、今日受けた傷よりも酷い怪我をすることもあるだろう。命を落とす事さえも。

 今、里を去れば安全な日々に戻る事が出来る。負担の少ない仕事を探して再就職する事も難しくはないだろう。

 だが、それはとてもつまらない選択のように思えた。

 志人は陰陽道に魅せられていた。

 クオンに呼び出された焔鷹ほだか

 高等部の実技で、生徒達が術を使っている姿。

 どちらも彼にとって羨望の的だった。

 自分もその力を得て使ってみたいという欲求は、捨てられそうになかった。

 それと、クオンの事も気がかりだった。

「もし俺がいなくなったら、クオンはどうなる?」

 その問いかけに、彼女は少しだけ俯いた。

「新しい主人が現れるまで、この家を守り続ける事になります」

 視線を上げた彼女はいつもの無表情だが、志人はその奥に隠された感情を読み取れるようになっていた。

 諦めと寂しさ。

 出会った頃は彼女をロボットのように感じる事が多かった。だがクオンの過去を知った今は、それが自分を守るための仮面だった事がわかる。

 少しずつではあるが感情が垣間見えるようになったのも、いい変化なのだと志人は思っていた。

 それが再度閉ざされてしまうのは、とても悲しい事に思えた。

 志人は一度死んでいる。それを助けてくれた彼女に、少しでも何かを返したかった。

 色々な思いを巡らせ、志人は目を閉じて眉間を押さえた。

 無表情の下に、僅かな不安を覗かせながら見守るクオン。

 志人は目を開くと、目の前の少女を見つめた。

「俺は、陰陽師になるよ」

 その答えに、クオンの赤い瞳が見開かれた。

「それでは」

 少し慌て気味に立ち上がるクオン。

 志人に心変わりの時間を与えないかのようだった。

「今日からは体術を覚えていただきます」

 志人は立ち上がる事を少し躊躇った。

 決意表明をした直後ではあるが、昼間の疲れが残る状態で体を動かす事に気が乗らなかったからだ。

「さすがに今日はもう」

「疲れが残っていますか?」

 クオンの問いかけに、志人は立ち上がってみる。身体は思った以上に軽かった。

 不思議そうに手足を動かす志人に、クオンは自分の胸を指さした。

「先ほど貼った呪符の効果です。完全ではないと思いますが、かなり疲労感は消えているはずです」

 言われて志人は自分の胸を覗き込む。

 風呂上がりに貼られてから一時間も経っていない。それでも立てないほどの疲れがほとんど消えていた。

「すごいな。呪符の効果」

 志人の状態を確認したクオンは、庭に場所を移して指導を始めた。

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