第13話 中等部へ

 翌日の滝行にも道真とうまは付き合ってくれた。

 昨日は気が付かなかったが、滝の中でも打ち付ける水の量が多い所と比較的少ない所がある。

 道真は自分が厳しい位置に立ち、志人ゆきひとをその隣の少し楽な場所に立たせていた。

(こういう気遣いできる所は幸子さん譲りだな)

 志人は心の中で感謝すると、修行に打ち込んだ。

 まだ道真のように平然とはできないが、昨日に比べれば少しだけ余裕ができた。

 帰りに蘆屋家あしやけに立ち寄って朝食をいただき、クオンに見送られながら学校へ向かう。

 かなり厳しいと言われていた日課も、蘆屋親子とクオンに支えられながら徐々に慣れていった。


 十一月半ば。

 小学部最後の試験に挑んでいた志人は、小さく息をついて採点を待っていた。

 担任の赤ペンの動きは軽快に丸を描いていく。自身はあった。

「おめでとう」

 答案用紙を渡しながら、担任の女教師が笑顔で言った。

「ありがとうございます」

 志人はそれを受け取って鞄にしまう。

「明日からは中等部ですね」

「はい、お世話になりました」

 そう言って志人は深々と頭を下げる。

 少し感慨深い様子で彼を見ていた女教師だったが、その表情に少し困惑が加わった。

「中等部は色々な意味で大変になるだろうけど、頑張ってね」

「はい、ありがとうございます」

 苦笑いで答える志人。

 三クラスある小等部の担任は皆、賀茂家かもけの遠縁にあたるそうで、校長には逆らえないものの志人に対する態度は穏やかなものだった。

 だが、中等部の担任はあの体育教師だった。

 どんな嫌がらせが待っているか、志人はあまり考えたくなかった。

 重苦しい気分をなんとか払拭しつつ、下駄箱に向かう。

 いつもなら誰もいない時間だが、今日は珍しく人影があった。

 昇降口から外を眺める一人の女生徒。

 美月みつきだった。

「こんな時間に、珍しいね」

 隣に並んで声をかける。

 彼女は志人に小さく頭を下げると、小雨が降る校庭に視線を戻した。

 薄暗い校庭から、冷たい風が二人の間を吹き抜ける。

「滋岡さんは補習ですか」

 視線はそのままに小さく尋ねる。

「うん。小等部最後のテスト。明日からは中等部に入るよ」

「おめでとうございます」

 何の感情もない声音でぽつりと言う。

 憂い顔で遠くを見つめる彼女は、思わず見惚れるほど綺麗だった。風が長い髪を揺らすたび、薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。

 しばらくして、美月が不意に志人を見た。

 相変わらずの無表情だ。

 そこで初めて彼女に見入っていた事に気がつき、志人は視線をそらした。

「傘持ってないの?」

 少し上擦った彼の問いに、美月は黙って頷く。

 志人は鞄の中の折り畳み傘を取り出すと、美月の前に差し出した。

 彼女はそれを一瞥したが、

「大丈夫です」

 短く言って視線を暗い校庭に移す。

 志人は困ったように頭を掻いてから紺色の傘を開くと、それを彼女の足元に置いた。

 そのまま美月が声をかけるよりも早く雨の中に駆け出す。

 校舎が小さくなった頃に一度振り返って見ると、美月が傘を拾い上げて歩き始めるのが見えた。

 志人は安心すると、そのまま家路を急いだ。

 

 その日の夜。

 安倍家の書斎で調べ物をしていた宗明ひろあきのスマートフォンが着信を告げた。

「彼、中等部に進むって」

 出るなり女性がそう言った。

「報告は受けている」

「このまま卒業って事もあるんじゃない?」

「中等部のあの環境なら考えにくいが」

 相手の女性は数秒黙った。

「こっちも少し動いてみるわ」

「わかった」

 宗明の返事を聞くと、そのまま通話を終えた。

 

 翌朝。

「滋岡志人です。よろしくお願いします」

 短い自己紹介に対する答えは沈黙だった。

 気まずさに耐えかねて、少し早足で自分の席に向かう。

「中学生に混じって授業とか、恥ずかしくないのかねぇ」

 男子生徒の野次に、数人が笑った。

 志人は黙殺して窓際の一番後ろの席に座る。

 隣に座っていたのは美雲みくもだった。

「よろしくね」

 声をかけてみるが、彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らすだけだ。

(四面楚歌、前途多難)

 思考が停止しかけているのか、志人の頭にはそんな四字熟語しか浮かばなかった。

 

 一時間目、体育。

 体育着に着替えた中等部の十人は、校庭に集まっていた。

 担任のにやけ顔。嫌な予感しかなかった。

「まずは二人一組になれ」

 体育教師の言葉に、仲の良い生徒同士でコンビが組まれていく。

「滋岡さん、俺と組もうぜ」

 そう声をかけてきたのは、先程野次を飛ばしてきた男子生徒だ。

 他が決まってしまっている以上、断る事もできずに承諾する。

「今日の授業は格闘技だ。全員、距離をとって構えろ」

 志人は格闘技の経験がないので、困惑気味に周囲を見渡した。

 他の生徒達は一メートル程の距離をとって各々の形で身構える。

 美雲も女生徒と向き合って、半身になっている。拳を握っていないところを見ると、柔道か合気道か。

「よそ見してんじゃねぇよ」

 言われて志人も見様見真似で構えてみる。

「怪我をさせないよう、寸止めする事」

 体育教師の言葉に、少し安堵した瞬間、

「始め!」

 唐突に試合が始まった。

 一気に距離を詰めてくる男子生徒に対応できず、思わず数歩後退る志人。

 ガードの意味をなしていない両手をすり抜け、拳が腹部に迫る。

(早いな!)

 避けようと身を捩る間もなく、その拳は腹に打ち込まれた。

 あまりの痛みに膝から力が抜ける。

 だが志人が倒れる前に顔面に左のフックが入る。よろけた彼の視界に拳が迫る。やけにゆっくりに見えたが、避けようとする自分の動きも同じくらい遅かった。

 なんとか上体を反らせようとするが、腹部の痛みがそれを遮る。

 右ストレートが顔面に直撃し、志人は倒れた。

「おいおい、寸止めしろって言ったろ?」

「すみませーん。こいつが変な風に避けるから」

 担任も男子生徒も棒読みで言って笑っている。

(ここまでするか)

 立ちあがろうとするが、軽い脳震盪でもおこしたのか。地面が回ってうまくいかない。

 見かねた体育教師が志人の前まで来て、胸倉を掴んで引き上げる。

 その手を離すと、志人はそのまま尻餅をついてしまった。

 わざとらしく大きく溜め息をつく教師。

「これは駄目だ。お前は見学してろ」

 そう言って、自分は志人を倒した男子生徒と向き合う。

 よろめきながら校庭の隅に移動する志人。

 その背を見送りながら、美雲は苛立たしげに溜め息を吐いた。

 それを隙と見た女生徒が美雲に迫る。

 突き出された右手を難なく捌くと、その額にデコピンを打ち込む。

「寸止めは?」

 額をすりすりする友人に、

「ごめん、止められなかった」

 美雲は苦笑いで答えた。

 

 保健室で手当を受けてからの二時間目。

 数学の授業が始まる中、志人は小等部と同じように陰陽道の教科書を取り出した。

 それを見咎められる。

「今は数学だ」

「中学レベルの数学は勉強する必要がありません」

「授業態度が悪ければ単位はやらん」

(そうきたか)

 志人は内心で歯噛みする。

 小等部ではずっと陰陽道の勉強をしていられたのですぐに進級できたが、五教科をそのまま受けながらでは効率がかなり悪い。

 それでも単位をもらうためには従うしかなかった。

 元々数学が得意だった志人は、他者を圧倒するスピードで問題集を解いていった。

 

 結局、陰陽道の勉強が捗らないまま帰りのホームルームを迎える事になった。

 教室にいても全く馴染めず、誰とも話す事はなかった。

 唯一、昼休みに傘を返しにきた美月と言葉を交わしたが、

「助かりました」

「どういたしまして」

 だけだった。

 小等部で希達と無駄に話していた昨日までの日々が嘘のようだ。

「それじゃあ、今日の授業はここまで。滋岡は体操着に着替えて校庭に来い」

 教師の言葉に頭が痛くなるのを感じながら返事をする。

 放課後は教室に残る生徒もいるため、やむなくトイレで着替えるとそのまま校庭に出た。

 腕組みをしながら待っていた教師から告げられた課題は、嫌がらせにしか思えなかった。

「校庭を走れ」

「何周ですか?」

「俺が良いと言うまでだ」

 文句を言いたいところだったが、聞き入れるとは到底思えなかったので、志人は渋々走り始めた。

 元々体力には全く自信がない。

 連日の滝行である程度は体力がついたと思っていたが、十五分も走ると足が上がらなくなってきた。

 体育教師は花壇に腰をかけて週刊誌を読んでいるだけで、止める素振りは全くない。

(三時間走らせる気じゃないだろうな?)

 嫌な予感しかしなかったが、今は走るしかなかった。

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