第12話 滝行と授業
翌朝。
やっと空が明るくなってきた頃に、
空気は冷たく澄んでいて、水の落ちる音だけが周囲を満たしていた。
滝の前には小さな小屋があり、白い道着を着た男達が二人立っていた。
一人は六十歳を越えた老人。もう一人は
意外な人物に志人は少し狼狽えた。
「早く着替えてこいよ」
道真が顎で小屋に促す。
志人は言われた通り小屋に入った。
中は銭湯の脱衣場のような空間だった。
入ってすぐの棚に白い胴着がサイズ別に積まれていた。
志人はLサイズを手にすると、手近な籠に着ていたものを畳んで入れて道着に袖を通す。
クオンから渡されていたTシャツを下に着込んでも肌寒い。
(これで滝とか)
二つの意味で震えながら、志人は小屋を出た。
志人が出てきたのを見ると、二人は何も言わず滝の方に向かっていく。
慌てて後を追った彼は、道真に追いつくとその足取りを確かめた。
「無事だったんだね」
言われた道真は何の事かわからず、訝しげな目で志人を見た。
数秒して昨日の事を思い出すと声を出して笑った。
「たいした相手じゃなかったからな。依頼の度に心配してたんじゃ、もたねぇぞ」
そう言って強めに志人の背中を叩く。
たたらを踏んで転びそうになるのを何とか堪える志人。
「騒がしいぞ」
振り返りもせず叱責する老人に、道真は不機嫌そうな視線を送る。
十段ほどの石段を登り終えると視界が開け、滝壺のすぐ脇に出た。
落差八メートルはあるだろうか。観光で訪れたなら見惚れる景色だが、叩きつける水の音は志人を慄かせた。
「体動かしておかねぇとキツいぞ」
そう言って道真が準備運動を始める。
志人はそれに習って体を動かした。
温まってきたのを感じた頃、道真が滝壺に向かって歩いていった。
側に立つ老人に視線を送るが、厳しい目で睨み返すだけで何も言わない。
志人は観念して道真の後に続いた。
近づくにつれて水音は激しさを増し、舞う飛沫だけでも体温を奪われる。
道真は先に滝壺に入ると、隣に立つよう促した。
シャワーでも浴びているかのように動じない彼の背中を見ながら、志人は滝壺に足を踏み入れる。両足を入れただけで、その冷たさに震え上がった。
意を決して隣に立つ。
打ちつける水の猛威に思わず前屈みになるが、志人は気を張って背筋を伸ばす。
老人とクオンが見守る中、彼は道真に習って手を合わせた。
体温を一気に下げられ震えが止まらない。
横目で道真を見ると、静かに目を閉じたまま微動だにしていない。
そこには普段の悪ぶった青年の姿はなく、彫刻の様に凛とした男の姿があった。
(負けてられないな)
志人はもう一度クオンの姿を見てから目を閉じた。
「そこまで」
五分経ったところで老人の声が滝壺に響いた。
ゆっくりとした足取りで滝から離れる道真。
志人は早足で水から上がった。
濡れた胴着はかなり重くなっていた。
一歩進むごとに、更に体温が奪われていく感覚に襲われる。
震えが酷く足元がおぼつかない志人とは対照的に、道真はしっかりとした足取りで小屋に向かう。
「道真は毎日やってるの?」
なんとか小屋まで辿り着いた志人は、濡れた胴着を脱ぎながら震える声で道真に尋ねた。
「いや、週一回くらいだな。今日はあんたの付き添いだ」
そう言いながら新しい胴着に着替え始める。
理解が追いつかない志人に、道真はニヤリと笑う。
「あと二セットだ」
そう言って彼は新しい胴着を志人に投げつけた。
それを受け取った志人は、青ざめた顔から更に血の気が引くのを感じた。
クオンに体を支えられながら、志人はなんとか蘆屋家の前まで辿り着いた。
「寄ってけ」
それだけ言うと、道真は先に自分の屋敷に入っていく。
志人が玄関まで進むと、中から割烹着姿の幸子が出てきた。
「お疲れさん。うちで温まっていきな」
通されたのは先日とは違い、六畳の居間だった。
道真は先に座り、スマートフォンをいじっている。
クオンが台所に向かったため、志人は一人で彼の前に座った。
「今日は依頼なしか」
残念そうに言ってスマートフォンをテーブルに投げ出す。
「依頼ってスマホで見れるの?」
志人が問うと、道真はスマートフォンの中のアプリを開いてみせた。
「専用アプリがあってな。ここに依頼の一覧が出る。今日は九州と北海道には出てるが、遠征してまでやる依頼じゃねぇな」
志人がスマートフォンを覗き込んでみると、どちらも小鬼退治の依頼だった。発生場所と報酬金額が載っている。タップすると詳細が表示されるようだ。
二件とも報酬額は十万円と表記されている。
「小鬼退治は難易度低いってきいてるけど、十万出るんだね」
「ああ。怪我する事なんてまずねぇけど体張ってるわけだしな。それと、旅費は自分持ちだからな。基本、そのレベルの依頼は各地の里の連中で片付ける」
ポットから自分でお茶を淹れながら道真が答えた。志人の分も淹れてくれたので、礼を言って受け取る。
「陰陽師の里ってあちこちにあるんだ?」
「俺らがガキの頃は各都道府県にあったらしいけどよ。ここ十年くらいでいくつか潰されたらしい」
面白くなさそうに言ってお茶を啜る道真。
「日本だけじゃないって話だよ」
言いながら幸子が入ってくる。
後ろに続くクオンと二人で四人分の食事を運んできた。
幸子とクオンは卵かけご飯に焼き鮭に味噌汁、道真はそれに加えて唐揚げが出された。
志人はほぐした鮭が散らされた卵雑炊だ。
「初めての滝行じゃ、食欲もないだろ? それだけでも食べときな」
幸子の気遣いに礼を言うと、四人で手を合わせてから食事を始めた。
まだ冷えたままの体に出汁の効いた雑炊が染み渡る。見慣れない香草が複数入っていたが、先日の薬草のような苦味はなく美味しくいただける。
道真は同じ苦行を受けながら、山盛りのご飯と唐揚げを平らげていた。
「ん? 一個やろうか?」
志人の視線に気がついた道真が聞いてくる。
「いや、大丈夫。滝行の後に普通に食べられるのが凄いなって思ってただけだから」
「別に大した事じゃねぇよ。俺より初回で三セットやりきったお前の方がすげぇ」
味噌汁を一口啜ってから道真が言葉を続ける。
「最初会ったときは情けねぇ奴がきたと思ってたけどよ。一週間で折り紙できるようになるわ、滝行もこなすわ、正直驚いたぜ」
「三セット目の途中で倒れちまう奴が多いからね」
幸子も関心したように頷いてみせる。
実は志人は、言われた通りに一週間で折り紙は完成させていた。
だが二時間近くかかっていたので、時間短縮するために苦労していたのだった。
この事を話すとプライドの高い安倍家の人間の風当たりが一層酷くなる事を懸念した幸子が、内密にしておくことを提案したのだ。
「今日は道真がいてくれたから頑張れたんだ。ありがとうな」
心からの感謝を伝えると、道真は気恥ずかしそうに視線を逸らして唐揚げにかぶりついた。
志人は気づかれない程度に微笑んでから、隣で静かに箸を進めるクオンを横目で見る。
クオンが見守ってくれていた事も大きかったが、この場でそれを言うのは恥ずかしかった。
皆が食事を終えてお茶を飲み始めると、志人は気になっていた事を聞いてみた。
「さっき、日本だけじゃないって言ってましたが」
その質問に、幸子は湯呑みを置いてから答えた。
「海外にも
幸子が神妙な顔つきで続ける。
「日本でも小鬼がやたらと増えたのがその頃でね。奴らはある程度増えると上位の鬼を呼んだり、各地で封じられている強力な妖を解き放ったりとろくな事をしないんだよ」
説明してから幸子は失言に気がつき、バツが悪そうにクオンを見た。
彼女は気にしていない様子でお茶を啜っている。
「陰陽師の里も減ったとか」
志人が幸子に再び問う。
「そうだね。新潟と熊本で大きな被害が出たよ。復興しようにも陰陽師の数が足りないから、生き残った連中は他の里に迎えられたって話さ」
現実味がない話に、志人は戸惑う。
「これは噂程度の確証のない話だけどね」
声のトーンを落として幸子が更に続ける。
「滋岡家に落ちた雷も妖の攻撃じゃないかって話もある。里の守りを崩して攻め入るためにね」
「村の形が五芒星になっているのは、結界的な意味があるんですね」
志人の言葉に、幸子は黙って頷く。
「そろそろ出ないとやべぇんじゃねぇか?」
黙って話を聞いていた道真が時計を見ながら口を挟んだ。
七時半を少し過ぎている。
初日から遅刻するわけにはいかなかった。
「ご馳走様でした」
言って志人は慌てて立ち上がる。
「明日も朝ご飯食べにきなよ」
幸子の言葉に遠慮するが、
「いいから行ってきな」
その言葉に押されて志人は居間を出る。
クオンに渡してあった通学用の鞄を受け取ると、志人は早足に蘆屋家を後にした。
小学生に混ざって授業を受けることは、思った以上に抵抗がなかった。
元々少人数の学級なので、一年生と二年生が同じ教室で違う課題をやっている。
志人もその一角でクラスメイトと違う課題をやっている形だからだ。
小学生に混ざって国語や算数の授業を受ける事を覚悟していたが、それは杞憂だった。
子供達は国語の授業を受けているが、志人は陰陽師の歴史を学んでいる。
以前クオンと
休み時間は子供達に質問攻めにあうので休めなかったが、
放課後は担任の若い女教師と補習だった。
彼女は安倍家の派閥ではあるものの、志人の勤勉な姿勢に答えて熱心に教えてくれた。
三時間の補習が終わる頃には、すっかり日が沈んでいた。
志人は授業の内容を反芻しながら家路についた。
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