誰にも救えないわたし。誰かの救いにもなれないわたし。救われない夜は、どこか欠損を抱いている。体の一部が欠落してしまったみたい。なんで救われないのか。どうして救われたいのか。そもそも救いなんていうものは、なんなのだろうか。結局、わたしは世界が怖かった。でも、どうして世界が怖いのかは分からない。

 東の空が少し明るくなってきて、これから全てが動き出すんだよっていう合図。そんな全てってやつを動かすために、神様が太陽を少しずつ上空へ向けて動かしていくきしり音が聞こえてきそうだった。吐く息がほんのり白くて、自分が生きているってことを証明する。その生きているって証拠が、怖かった。平明の、世界が始まり出している頃の、世界から聞こえてくる小さな始まりの物音は、わたしの立てる音を一層際立たせる。寝ていないことで心臓の音が大きく聞こえるし、世界の音の中で自分が「生きている」って不協和音を立てているような感覚に襲われる。

 自分の心臓が動く音が、感覚が、怖い。息をする音が、怖い。自分の立てる音が、怖い。全部、全部、わたしが生きている証拠みたいで、怖い。自分が生きていることが怖いだなんて、こじらせた考えだって、分かっている。いじめられたわけでも、恋愛こじらせたわけでも虐待されたわけでもない。それなのに、他者の悪意が自分に向けられることもあるのだ、ということから飛躍して、全人類に愛されなければ生きていけないと、思えてしまうんだ。

 仲良くなれない人もいる。ただ、それだけ。友達がいないわけじゃなくて、友達になれなかった子もいる。たったそれだけなんだ。

 でも、そのことを意識したら、周りの子達の口喧嘩とか、苛立ちとか、そういうものが、過敏症なくらい気になってしまう。

 小学校まで友達だった子たちが、中学に上がったら成績の差のせいで遊ばなくなったとか、性格が変わってしまったとか、そういうささいなことが気になってしまう。それらのことは、誰も悪くないんだ。悪くないんだ。それなのに、誰も悪くない敵意が自分にも向けられることを恐れていた。そうしてわたしは、それらの敵意が向けられるのは自分が悪いのだと、信じている。

 そのうちにあたためられた大気は絹の手触りになって、今起きたみたいな顔をして、家族に気取られないように朝食を食べる。歯を磨いて、教科書を鞄に詰めて、学校へ行く。目の隈、すごいんだろうなと思いながら通学用の自転車を漕ぐ。不眠で酸欠の肺に血を送る心臓も、脈がおかしい。学校に着くと、部室へ向かう。文芸部なのか園芸部なのか分からない部活の部室へ。先輩はもう部室にいて、薄荷パイプを吸いながら本を読んでいた。

「おはようございます」

 そんなわたしに先輩は「おはよう」と返して本を閉じる。

「なんの本ですか?」

「ドストエフスキーの『地下室の手記』」

 「それ、中学生女子の読み物じゃないですよ」と私が笑うと、先輩も「そうだよね」って笑った後、「でも」と言う。

「『罪と罰』ってあるじゃん?」

「はい」

「自分だけは決して自分をゆるすべきじゃないんだよ。原作の意味とは違うけど」

 どういう意味ですか? と訊ねると、先輩は語り出す。

「誰かにゆるしてもらえるような自分がいるなら、せめて自分だけは自分をゆるさないでいてあげるべきなんだよ。自分だけの、生きているっていういとしい罪を。みんなやさしいからゆるしてくれるけど、自分が自分をゆるしちゃったら、自分だけの罪だったはずのものは、自分の証明であったものは、『誰か』のゆるしで埋め立てられちゃうからね」

 わたしはその意味を咀嚼して、なんとか飲み込んで、「そうですね」と返す。

「罪をいだいて生きてこうね」

「はい」

 先輩と話している間、わたしはわたしでいられる気がする。罪も罰も、無いよなんて綺麗事じゃなくて、肯定したまま生きていくことを、わたしは先輩から教わった。

「憎しみの責任は、取らなくちゃいけない。一度憎んだものは、一生憎み続けなければ、憎んだ責任は取れないよ。やっぱり愛しているよ、だなんて、ずるいよ」

 それは先輩の口癖だった。先輩の言葉に感化されたわたしは、わたしを、世界を、憎悪し続けなければいけない、と思った。

「わたし、わたしのこと、世界のこと、嫌いですよ」

「私も」

 そう言ってわたしたち、何かを憎しみ続ける約束をした。その悲劇は、とても心地よかった。わたしは、私を憎むわたしが、少しだけ好きなのだと、思う。

 「今日の活動どうするんですか?」と訊ねると、「そうだね」と思案して見せた後、先輩は言う。

「ねえ、毒草育ててみない?」

 そんなことを言う先輩は、本気なのか、冗談なのか、分からない笑顔を私に向ける。わたしは少し考えて「いいですね」なんて、言う。毒草なんて育てて自殺でもするのだろうか。確かに一部の毒草は山野草として売られているし、鑑賞する分には違法でもない。先輩の意図が読めなかったけれど、先輩と同じ時間、同じものを共有したくて、わたしは肯定の態度を見せた。

「いいでしょ?」

「はい」

 「でも」と言って先輩は薄荷パイプをふかす。

「加奈ちゃん、なんでって顔してる」

「それは……」

 言わなくても、先輩には分かっているのだろう。毒草で死ぬことは、ほぼ不可能なのだと。それに……。

「仮に毒草育てられたとして、それで死ぬなんてできないと思ってるでしょ?」

「ええ」

 不本意ながら。そう付け足す。それに、本当に今すぐ死ぬ気がわたしにあるのかと言われたら、正直答えられない。死にたい気もするし、死にたくない気もする。どうせ死ねないのが分かっているから、死ぬふりをして遊ぶくらいが一番心地いいんだ。

「すぐ病院運ばれて、助かりますよね」

「そう、たとえトリカブトとか、毒性の強いやつを食べても胃洗浄されて終わり。毒性が強いって言われてるマムシグサなんかも、その毒はシュウ酸だから、山芋なんかにも入ってる。ただその含有量が多いだけ。ほとんどの場合は死なないし、死ねない」

 「でもね」と先輩は言う。

「それらの毒を血に直接混ぜたら、死ねると思わない?」

「それは……」

 わたしはその話を聞きたくなかった。わたしは、生きるに生きられないから、ただ、死の近くへ行きたかっただけなんだ。でも、本当に死ぬ気なんて、先輩にもないだろうし、わたしは頷く。

「そうですね」

 ただ、今という生きづらさを薄めてくれるものが、死であれば、限りなくそれに近づくことで、生きて行ける。

「みんなみんな、いつか雨は止むとかさ、地獄はないとか言うけどさ、地獄が存在しないなら、天国も存在しないよ」

 わたしは、その言葉の意味するところが、なんとなく分かるような気がした。

「仮に天国があったとして、生きていることが地獄なら、その痛みは天国まで持って行くべきなんだよ。みんなみんな、生きた証を、この痛みを、あの世まで持って行くべきなんだ。この痛みを、生きた証を、天国なんかに奪わせちゃいけないんだよ」

 わたしはうなずく。「そうですよね」って。そうだ。この痛みは、誰にも奪わせない。わたしだけの、わたし達だけのいとしい痛み。「つらかったよね」だとか「もう頑張らなくていいんだよ」なんて言って、わたしたちが生きたこの痛みを、わたし達がわたし達であった過去をそんな軽い言葉で台無しにしてほしくないんだ。

わたしたちは、死を解明するより他に、生きていく道を知らない。死とは、生の裏返し。限りなく、生の側から死が透けるほどに死に接近することで、死を解明できる。死を解明できなければ、人間はその実存を確立することはできないんだ。生を知っても、それでも人間という存在のもう半分の「死」を知らなければ。死の先を誰も見たことがないのだから、人間は完成していない。生というひとつの現象しか知らないわたしたちは、未完成なんだ。わたしたちは、完成されなければならない。完璧に生き、完全な死をもって美を完成させねばならない。それが、わたしと先輩の約束だった。

「美しく死ななければ、美しく生きられませんよね」

 それは矛盾だろうか。美しい最後によってその最後を結ばなければならないんだ。

「そう。そうだよ」

 先輩は満足そうに言う。

「実存をかけて、その存在証明をかけて、私たちは死ぬんだ」

 そう。死ぬつもりはないけれど、生死を賭けなければわたしたちの存在論は、語れないんだ。わたしたちは、それだけでわかり合えた。だから先輩は「これ」と言って教室の隅に置いてあるいくつかの苗を指さす。

「これはマムシグサ。これは紫陽花。これはカンアオイ……」

 そうやっていくつかの鉢を説明していく。その最後に「これ、トリカブト」と言う。

「これ、咲いたら青い花が咲くよ。真っ青な空みたいな色に」

「空の青さに召されたり、ですね」

 先輩から教えてもらった寺山修司の句から引用すると、彼女は言う。

「そうだね。悪いことに世界を花のように信じているって、そんなことを言った詩人もいたしね」

「はい、田村隆一ですね」とわたしが頷くと、「だって私たち、悪いことに死を花のように信じているんだから」と言って、スカートのすそをいじりながら、花のように笑う。死を信じているという顔をして。

「だから、育てようよ。花のような死を」

「はい」

 放課後、わたしたちはそれらの花の苗を校庭の裏に持って行って並べた。並べられた死は、暖かくなってきた馥郁を含有する風に揺れていた。それからわたしたちは、毒草を、毒を、育てた。水をやり、日照を調整し、根を整理する。そんなひと時が、わたしの幸福だった。死へ向かっている、という事実が、わたしに幸福をもたらした。

 そんなある日、先輩は「これ」と言って、放課後の部室で隠れながらわたしに注射器を見せてきた。

「注射器、ですか?」

「うん。通販で買った」

 通販で注射器が買えるなんて、売る側は悪用されることを考慮していないとしか思えなかったけれど、今のわたしたちには必要なものだったから、文句は言えない。

 わたしは、恐ろしかった。その注射器の先端の、金属の冷たさが。いや、肉体を傷つけるためだけに作られたその鋭い冷たさが。「死ぬ」という現象の実体がそこにはあって、これをわたしと先輩は、自らの腕に突き刺す。それによって死ぬ。その現実が、ひどく恐ろしかった。あんなにも憧れていた死なのに。死と恐怖は、類似しているようでいて本当はこんなにも違うものなのだと、思った。

「怖い?」

「はい」

 わたしの手足は、震えていた。その、感覚が、はっきりとあったからどのみち恐れを隠すことはできないだろうし、ここで隠すことは裏切りだと思った。

「そうだよね。怖いよね」

 それから先輩は注射器を机の上に置いて、自分の腕に視線を向ける。

「そう。それでいいんだよ。死は恐ろしいものじゃなくちゃならないんだ。血を流すこともまた。死は、憧れなのだから、同時に畏怖でもなければならない。その矛盾こそが禁忌っていう甘い毒になりうる。毒薬を、持っている、所持している、という意識は、甘美な死をその手に握っているという現象そのもの。死をその掌に収めたいのなら、恐れという感情こそ、『美しく死ぬ』って空想に実体を与えられる手段だよ」

 それは、その観念は、美しく死ぬために必要なものだと、わたしの中で、思考が肯定する。それなのに、わたしの本能が拒絶する。

 本能など、捨てたはずなのに。感情など、無意味だと思ったはずなのに。感情などなくなってしまえとあれほど祈ったのに。生きている証拠の、本能が、感情が、怖いのだと、あれほど嫌悪したのに。

 それに、ここで先輩を拒絶したら、わたしはあれほど嫌った世界へと戻るほかに道はなくなってしまう。それでも、それでも、それなのに……。

「怖い?」

「はい……」

 わたしは先輩の問いに、震える唇でやっと応じる。

「そうだよね」

 「そりゃあ怖いよね」と言って、先輩は机の上の注射器をまた手に取る。

「私も怖いよ。でも生きるとか、そういうこと、できないから、摩滅しながら生きることしかできないよね。かろうじて破滅してみせることで、生きることにすり替えるしかできないんだ。私たち」

「はい」

 わたしは、俯いて頷くことしかできなかった。部室の床のワックスのかかった光沢が目に入る。部屋の隅に沈殿した塵が目に映る。普段は気にも留めないようなものたちが、なぜか説教を聞いているときだけは存在感を持って迫ってくる感覚に似ていた。それでいてそれらのものは、感情を動かすようなこともない。ただ、存在感だけが増して行く。

 こういう時、こういう感覚に陥った時、わたしはだいたい泣いてしまう。だから、今も「あ、わたし、もうすぐ泣くんだ」と思っていたけれど、「泣いてるの?」という先輩の言葉でもうすでに泣いていることに気付かされた。


 そんな過去を思い出して、できるだけ考えないようにする。結局わたしは約束を果たせなくて、過去にしばられている。

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