三
虫のすだく声が濃くなって、鳴き方そのものも今までとは変わった気がする。夜。桜はわたしの注射器のことを誰かに話しただろうか。
血液を薄めて、透明になれたら。研ぎ澄まし続けたら、美しく生きていける気がする。そう言ったわたしの言葉に嘘は無い。本当にそう思ったんだ。
この間ささくれてしまったかわいそうな爪を見る。ささくれを毟って、血が出て、これが透明だったなら。透明な血液の代替物を注射したら、自分が透明になれる気がする。透明になったら夏の透明な空と同化できるだろうか。
夏の夜の抒情は、とてつもなく透明だ。ぬるくて、塩素のにおいのする幻想の中に居られる。夏の幻想。夏の幻影。それが逃げ水のように実体の無いものだったとしても、わたしはその中に居たい。
夏の中遺骸の中で跡形もなく去って行った、あの人の跡形を追いかけるには、わたしも透明にならなければならないんだ。そう、思ったから。
「そんなやせ我慢してないでさ~」
「何を?」
部屋からベランダへ、投げやりに聞き返す。「吸ったらいいじゃん、本物」と大学生の兄。
「やだ!」
そうきっぱり言うと、零士は「本物」に火を着ける。「ほんとは怖いだけでしょー?」って笑われるから、「はいはい」とやる気なく流しておく。
「そんなに怒るなよ」
そう言って零士は、兄は、部屋の中へ戻って来て私の頭を撫でる。「別にお前になんか慰めてもらおうとはおもわねえよ。自惚れんな」と言いたかったけれど、泣きそうな夜に頭を撫でられると、本当に泣いてしまう。
夜の嗚咽。
「え? 俺泣かせるようなことした?」
「した」
普段学校ではこんな顔、二人には見せない。見せたくない。だからと言って零士が特別ってわけでもないんだ。どうでもいいから、泣いてもいいやって思うだけ。
薄荷パイプを咥えて、それでも物足りなくなって、紅茶を巻く。
「それってやっぱり彼氏か何かの影響?」
「は? 違うから」
そうと言えばそう。でもそんなこと言いたくもないし、厳密には彼氏じゃなくて中学の先輩の影響。だから違うと言っておく。
二人には言えないわたしだけの秘密。もちろんこいつにも。先輩の吸っていた薄荷パイプ。紅茶。その追憶。
中学の頃、わたしは怖かった。何がというわけでもなく、世界が。同じように「世界が、この小さな地元が怖い」って言っていた先輩。「一緒に死のうね」って言って、海で二人、毒薬を飲もうとして近所の住人に見つかって止められてしまった。そうして疎遠になっていった。次に再会した時、先輩は棺の中だった。
「金木犀の花言葉は追憶なんだって。私が死んだら、棺いっぱいに金木犀の花を入れてね」と言っていた先輩。「そうしたら、追憶になれるから」と言っていた先輩。「追憶なんていう、あたたかな死になれたら、やっと生きて行ける気がする」と、そう言っていた先輩。
彼女のことを思い出すと、また涙がぽろぽろ出る。
「どうしたの?」
「俺、何かしたなら謝るから」と、そういう零士の馬鹿なところが少しだけ救いになる気がする。
「なんで泣いてるの?」
そう優しく言ってくれる何も知らない、何も分かっていない零士は本当に馬鹿。でも、私の方がもっと馬鹿。そう思えて、本当のことを言ってしまいたくなる。
「雨が降ってるから」
首をかしげる彼に、「雨の夜は、優しいにおいがするから」。そう言っておく。
「そうだね」
こいつは馬鹿だけれど、そういう詩情は理解してくれる。
「土のにおいがするね」
「うん」
今は、それでよかった。金木犀が咲いたら、わたしはもっと泣くだろうか。窓の外からは蛙の鳴き声がする。雨に打たれて。先輩が生きていたら、零士と同じ大学生。ふと、そんなことを考える。
いつか桜がわたしにやったみたいに、今度はわたしが零士の袖の裾を引っ張る。
「なに?」
「意味なんてないよ」
「そっか」
それ以上何も言わずにいてくれる彼が、今はありがたかった。彼の手を見て、血管の浮き出た大きな手。筋ばった手。わたしたち三人とは違う手。男性とはこんなにも、大きな手をしているのだと、改めて思う。別の人類みたいだと、思う。
いつか、全て話せる日が来るのだろうか。別の人類になら、話せるだろうか。
それとも、別とか同じとかじゃなく、二人にも話せる日が来るだろうか。全ては、物語は詩情によって進んでいく。わたしの生という物語も、詩情によって次のページへと進むのなら、やっぱり透明な物語になりたいと、思う。
「じゃ、俺帰るから」
「ああ、また」
そう別れを告げて彼は一人暮らしのアパートへ帰っていく。「また」という言葉の意味を考えて、わたしはまた零士に会いたいのだと、思った。
「おはよ、加奈」
「ああ」
どんな顔をして桜は私の前に現れるだろうか。零士が帰った後考えていたけれど、何の変哲もない日常があるだけだった。
いつも通りの桜の潤んだ瞳は、昨日わたしのために濡れていただろうか。そんなわけないかと思って、「おはよ」と返す。
とりあえず、今は注射はやめておこうと思った。
「トリカブト、咲くといいね」
「そりゃ咲くだろ。桜が育ててくれるなら」
「もしかして自分で咲かせる自身無いから学校に持ってきたの?」
彼女はそんなことを言う。
「それもあるな」
そう言うと、「もう」と言って呆れられる。そのうち彩が教室へ入ってくる。
「昨日は大丈夫だった~?」
「何が?」
「貧血~」
そうか。彩は知らないのか。そう思って、それか教室だから何も言わないのかと思い直して、まだ警戒は解かない方がいいと思った。
授業が終わって、部室。窓の外の葉桜は、午睡の眠気を催す穏やかな日差し揺れている。その葉を透過して、金色の陽光がそこここに落ちて日だまりを作っている。
おタカはまだ来ない。
「彩、おタカ呼びに行って来て」
桜が言って、二人きりになって「ああ、これは昨日のこと、言われるな」と思う。
「わかった~」
そうして彩が居なくなると、やっぱり言われた。
「ねえ、昨日のことなんだけど、どうしても理由、教えてくれないの?」
「言えないね」
「でも、心配なんだよ」
すべてを話す必要は無い。私は先輩が好きだった。だから、それだけの理由なんだ。死んで行った先輩を追いかけているだけなんだ。
そこに大した理由なんて無いんだ。本当は。金木犀がとか、追憶がとか、そんなのはどうでも良くて、好きだった人が死んだ。ただ、それが受け入れられない。『さびしいのは人間の原罪』だと、坂口安吾が言っていた。さびしいんだ。悲しいんだ。満たされないんだ。
だからそれらは、おそらく私が生きていることそのものの罪のようなものだ。桜にも彩にも背負わせるべきものじゃない。それに、先輩の足跡を追っても仕方ないんだ。先輩の鮮烈な生と死に憧れても先輩にはなれない。先輩との日々が戻って来るわけじゃない。それはわかってる。
これは、それでも、という憧憬。美しい死への倒錯した憧れ。ただ、それだけなんだ。それだけなのに、食塩水を注射したり、毒草を育てたりしている。そんなことをしたって、先輩に会える訳ない。それが分かっていながら、物語の主人公になれていたあの日々が戻って来て欲しいと思ってしまう。
「心配、ね」
「ありがと」と一応お礼を言っておく。突き放したみたいな口調で。
「で、理由!」
「そんなの聞いてどうすんだよ」
「桜に何ができるんだよ?」と、言うべきじゃないことを言ってしまう。
「それは……」
「簡単に心配とか言うなよ」
「でも……」
そう食い下がる。こいつは善良だ。彩もそう。善良だからこそ、死に近づけてはいけないんだ。
「分かったよ」
それでもここまで言われたら、話さざるを得ないと思った。
「死んだ先輩のことが好きだったから」
そう言ってみたけれど、それだけでは何も伝わらない。
「悲劇とは、物語足りえる。自分の生を物語にできたら、あの死んだ先輩との物語みたいな日々をもう一度やり直せるような気がしたんだ」
「それで、注射したの?」
「美しい悲劇。世界に絶望していたあの頃、二人で死のうね、って約束した。そんな約束は、美しい悲劇だったんだ。でも、約束は果たされなかった。だからわたし、先輩が死んだように美しい悲劇として死にたかった」
「それで」とわたしは言う。
「美しい悲劇の日々は物語だった。わたしと先輩は物語の主人公だった。そういう自意識が、わたしたちを美しく生かしてくれた。だからもう一度、美しく生き直さなくちゃいけないんだ。その期限付きの物語の果てに死ぬことで、わたし永遠になれる」
「桜にこの詩情が分かる? 悲しい物語の詩情が」と言ってみる。たぶん桜には分からない。分かっていたら、わたしはあの頃を取り戻せていただろう。
「分からないよ」
そう、その返事を期待していた。わたしと先輩だけが、この世界で美しく輝いていた証は、桜にだって、彩にだって分からない。わたしと先輩だけにしか分からない煌めき。わたしの罪は、わたしだけのものだ。美しく朽ちていく。それがわたしの願い。
「だろうな」
「ならこれも教えてやるよ」と、わたしは言う。それを言ったら、桜はどんな反応をするだろうか。
「先輩、園芸部だったんだよ。そもそも先輩がおタカを巻き込んで園芸部を作ったんだよ。いつも薄荷パイプ吸って、やさしく笑って、毒草集めて、トリカブト注射して死んだんだ。あの清澄な青い花の毒で」
それだけだ。ただ、それだけ。言葉にして説明してしまえば、ただそれだけの経緯。それだけなのに、あの日々を思い出すと、涙が滲む。
「それじゃあ加奈が園芸部入った理由って……」
「そう。先輩の真似した」
「桜のためじゃない」と言いながら、こんなわたしのことを好きでいてくれる友達のために、涙が少し出る。
「それでも」
「それでもいいよ。私達の三年間は、嘘なんかじゃなかったでしょ?」と、桜は言う。
そうだ。それはそう。でも……。
「桜のために園芸部入ったわけでも、彩のためでもない。わたしはわたしのために、仲良しごっこしてただけ」
そう言ってしまった。桜が、彩が、あんなに大事にしていたこの高校生活を、わたしが汚しているような気がして、それならいっそ初めから壊れていたことにしてしまえ。そう思って。
そうしたら、桜は泣いて、わたしたちは泣いた。全部わたしが悪いんだ。そう思えて、「ごめん」と言って部室を出る。分かっている。桜は純粋にこの部活が好きなんだ。わたしだって二人のことは好きだ。それでも、三年前の日々の、その果ての答えを得たかった。桜がずっと大切にしてきたこの部活での時間を、彼女が永遠にしたいように、手放せないでいるように、わたしは先輩との時間を手放せないのだ。過去に縋っていると分かっていながら。未来を見ろと桜に言っておいて、わたしの方こそ未来を見ていないと分かっていながら。
まあ、桜のことは彩がなんとかしてくれるだろう。あれで馬鹿じゃないんだから。
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