第2話 その名は――
「蠅の女王。質問がある。あなたは一体何者なのだ」
イグネイシャスが質問をする。しかし、蠅の女王は首を傾げた。
「何者とは。そんな質問では、貴殿が求めている答えを出せないかもしれない。わたくしには名はない。では、何をもってわたくしはわたくしたらしめているのか、その要素はなんなのか……」
「そんな哲学的な答えは求めていない。私が知りたいのは、蠅の女王がどんな生物なのかということだ」
「なるほど……? どんな生物。それも難しい質問だな。わたくしには目が2つある。だが、わたくしの仲間は複眼を持っているのでもっと目の数が多い。となると、わたくしの種族の特徴は目の数によって決定しないということか? いや、そこまで違うのであれば同一種族として見るのは無理があるというか」
「わかった。質問を変えよう。蠅なのに人間の姿になったことについて知りたい」
抽象的な質問では、イグネイシャスの求めている答えは出ないことがわかった。これからは具体的に質問をしていくとイグネイシャスは決める。
「なるほど。わたくしたちの種の特性を知りたいということか。わかった。それではまずはわたくしたちの生殖の仕組みについて解説しよう」
「生殖……」
イグネイシャスは複雑な気持ちになった。目の前にいるのは人外とは言え、女性の姿をしている。それに生殖の仕組みを解説させるとなんとも言えない居たたまれなさを感じてしまう。
「わたくしたちの種族は単為生殖でも増える。単為生殖とはオスがいない環境でもメスが子孫を産めるシステムと解釈してくれ。この単為生殖は基本的にメスと同じDNAを持つ子供が生まれる。だが、同じDNAを持つということは同じ環境で死ぬということ。環境の変化に弱いから、種全体としてみればオスと結ばれて生まれた子供よりも弱くなる」
「なるほど。遺伝については私も勉強したことがある。なんとなくのイメージはついた」
「わたくしたちの種族のオスは全滅した。1匹残らずな。その絶滅の理由は後で話すとして、わたくしたちは単為生殖を採用しているから同じDNAの子供を産めるから次世代へと種をつなぐことはできる。だが、先ほども言ったがこれでは環境の変化に対応できない。将来的に絶滅するのはほぼ確定だ」
蠅の女王はイグネイシャスの手を取る。イグネイシャスは急に手を掴まれたことで、キョロキョロと挙動不審を発揮する。
「そこでわたくしたちは他の生物のDNAを利用することを考えた。幼虫の段階。つまり、蛆の時に食した細胞のDNAと自分の母親から受け継いだDNAを混ぜ合わせて、新たなDNAを持った新しい生物に成長する。ちなみにこの特性を持つ個体は100匹に1匹の割合だ。わたくしの姉妹たちも貴殿の肉を食したが、この特性を持つのはわたくしだけだった。だから、わたくしの姉妹たちは、ただの蠅として生きているし、ただの蠅からは今後このような特性を持つ個体は生まれない」
「ええっと……つまり、蠅の女王。あなたは幼虫の段階に食した相手のDNAを取り込む力を持っていた。そして、私の肉を食べたから人間の特性を得た。他にも私に
「その通り。早いご理解痛みいる」
「そして、蠅の女王。あなたが産卵すればどうなる。あなたの遺伝子をコピーした個体が生まれるのか?」
「その通り。わたくしは女王だから、その子供たちはプリンセスというところだろうか。そして、そのプリンセスの中から、わたくしと同様の力を持つ個体が生まれて更に他の生物の遺伝子を取り込み、わたくしたちは多様性を得ていく。それがわたくしたちの生存戦略だ」
「なるほど。子供はメスしか生まれないのか?」
「どういうわけだか、性染色体までは取り込むことができないらしい。だから、生まれてくる子供の100パーセントはメスになってしまうわけだ」
イグネイシャスは蠅の生命の神秘に触れて感心する。
「ちなみに、イグネイシャス。貴殿はグレナ王国というところから来た。それであっているか?」
「蠅の女王。なぜ、私の祖国の名を知っている」
これまでイグネイシャスは自分の祖国の名前を言っていなかった。だが、この蠅の女王はその国の名を当てて見せた。
「ふむ。どうやら、私は食したものの記憶の一部も受け継ぐようであるな。こうして、貴殿と言葉を交わせるのもそれの影響だろう」
「私の記憶の一部を持っているのか。嫌だな」
人間には誰でも内緒にしておきたいことはある。自分の記憶を受け継ぐ存在がいるというのは、それに対する嫌悪感もあって当然である。
「イグネイシャス。わたくしは貴殿の記憶を一部持っている。そのわたくしが言う。貴殿は祖国に帰りたいのであろう?」
蠅の女王はまっすぐとイグネイシャスを見据える。イグネイシャスも蠅の女王の目を見返してうなずく。
「もちろんだ。私は祖国を取り返したい」
「本当にそれだけか?」
「どういうことだ?」
「貴殿が本当に望んでいるもの。それは復讐。今まで家臣として仕えていた者。信頼していた者に裏切られて、奴らを極刑にしたい。そうであろう?」
蠅の女王はイグネイシャスの心を見透かすように語り掛ける。だが、イグネイシャスは今度は首を横に振った。
「違う。私はそんなくだらない復讐心で動かない」
「どれだけ否定しても貴殿の心はそうは言っていない」
「……! 貴様になにがわかる!」
「わかる。わたくしはすでに貴殿の一部なのだ。人間の言葉で言うと血を分けた存在。わたくしは、貴殿のDNAを受け継いでいるのだ」
イグネイシャスは蠅の女王を見つめた。彼の王国にも歴史はある。歴代の王族の肖像画も描かれていた。その先祖の中にひときわ美しい女性がいた。その女性に蠅の女王は似ていた。自分の先祖に似ている存在。この蠅の女王は間違いなく、イグネイシャスのDNAを取り込んでいることを理解してしまった。
「イグネイシャスよ。わたくしは、貴殿の復讐を手伝いたいのだ」
「なに?」
「わたくしは貴殿に大いなる恩がある。わたくしがこうしてこの姿、この知恵を手に入れることができたのは、間違いなく貴殿のお蔭なのだ。そんな貴殿に仇なした存在。わたくしが許せると思うか?」
「知らない。あなたは私のことを知っているかもしれないが、私はあなたのことをなにも知らない」
「貴殿は義理堅いお人だ。その精神は間違いなくわたくしにも受け継がれている」
蠅の女王はイグネイシャスに手を差し伸べた。
「さあ、イグネイシャスよ。我の手を取れ。この蠅の女王と共に建国をしようじゃないか。貴殿にはその
イグネイシャスは、か細く小さな蠅の女王の手を見つめる。決してたくましい手ではない。でも、イグネイシャスはこの手に自分の運命をかけてみたくなった。
イグネイシャスが蠅の女王の手を握る。蠅の女王がニィと口角を上げてイグネイシャスの手を握り返した。
「蠅の女王。いや、女王には名が必要だ。後世に遺すほどの偉大な名がな」
「ほう、貴殿がその名を付けてくれるのか?」
蠅の女王が目を細める。
「そうだな……よし。あなたの名はこれからはグレイシャだ」
「ほう。中々に良い響きだ。気に入った。貴殿がわたくしにくれた最初の贈り物だ。大切にしよう」
蠅の女王改めてグレイシャ。イグネイシャスは彼女と共に生きていくことを心の中で誓った。
まだ完全にグレイシャのことを信用できたわけでもない。しかし、イグネイシャスの
信頼していた人間に裏切られたイグネイシャスにとって、彼女こそが唯一の理解者であるのかもしれない。
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