王と蠅の女王
下垣
第1話 蠅の女王
男性が目を覚ますと島の海岸だった。彼は、王だったもの。家臣の裏切りにより、国外追放されて海へと放り出された。
王は自分の体の状態を確認する。右足に軽い切り傷。それ以外は奇跡的にケガはない。もっとも海に投げ出されて、生きているだけでも奇跡に近い状態ではあるが。
「私の名はイグネイシャス。大丈夫。記憶はある」
若き王イグネイシャス。先代の王が急逝したために、第一王子であった彼が王になった。だが、彼はまだ若く王になるには未熟すぎた。
そのせいで、家臣に付け込まれてしまいこのように国外追放を余儀なくされてしまった。
イグネイシャスは島を探索してみることにした。右足をかばいながら島を探索する。
島は小さかった。日が暮れる前に島の外周を一周回れるくらいには。そして、この島には人の気配が一切ない。イグネイシャスはここが無人島だと断定した。
海に沈む赤い夕陽。それを見ながらイグネイシャスはセンチメンタルな気分になる。
「私はなぜ生きているのだ?」
こんな無人島に1人で生き延びるくらいなら、海に投げ出された時に死ねば良かった。本気でそう思うくらいには心が病んでいた。
イグネイシャスは幼少のころから一緒にいた家臣たちに裏切られてしまった。家臣の中には父親のように慕っていた者もいるし、一緒に育った幼馴染もいた。彼らにも裏切られて、イグネイシャスは人間を信じることができなくなってしまった。
「生涯の友だと思っていた者に裏切られた。人間の本質は裏切りなのだ。私は……もう人間を信じない」
沈みゆく夕陽。徐々に暗くなる空。イグネイシャスの心はこの空のように暗くなっていく。
◇
翌朝、イグネイシャスは目を覚ます。すると、右足が化膿していた。
「こ、これは……」
軽い切り傷かと思っていたが、それはあくまでもイグネイシャスの素人判断である。医者でもなんでもないイグネイシャスの診断は誤っていたのだ。
無人島のこの状況で傷口が化膿する危険性は素人でもわかる。ロクな治療ができないこの無人島でイグネイシャスは死を覚悟した。
「はは。どうせ死ぬんだったら、海に揉まれて死ぬ方が楽だったかもしれないな」
イグネイシャスはこれからの自分の末路を予想する。化膿した傷口はどんどん広がっていき、自分の体を冒していく。発熱、痛み、それらに襲われて楽に死ねるとは思えない。それならば、気絶している間に死にたかったというのが彼の本音だ。
◇
翌日、イグネイシャスの化膿した右足になにかもぞもぞしたものを感じる。イグネイシャスは自分の右足を見てみる。すると、そこには
無数の蛆が広範囲に広がった化膿した傷口を食べている。
「なんだこの蛆は……私は王だったのに。こんな虫けらに蝕まれて死ぬのか」
イグネイシャスは将来の展望が暗くなる。彼も死骸に蛆が沸くことはしっている。だから、自分の体はもう死にかけだと。そう思ってしまう。
思わず沸いている蛆を潰したくなったが、イグネイシャスは手を止めた。自分の傷口で懸命に張って生き延びようとしている蛆を見ているとそういう気にはなれなかった。
確実に自分の体が蝕まれていく感覚。王位をはく奪された王に相応しい末路だとイグネイシャスは自嘲気味に笑う。
◇
時刻は夜明け。日が昇り始めた時にイグネイシャスが目を覚ました。目を開いたイグネイシャスは信じられないものを目にした。目の前にいるのは人間の女性。否、人間というには少しおかしい。目の前にいる黒髪の女性の頭には触角が生えている。更に背中には昆虫の羽のようなものがあり、黒めいた灰色のドレスに身を包んでいる。イグネイシャスが最も目を引いた部分。女性の額には黒いハートの紋様が浮かび上がっていた。
高貴さを感じられる彼女はイグネイシャスを見て歪んだ笑顔を見せた。
「目を覚ましたか。我が夫よ」
「へ?」
急に夫と言われてもイグネイシャスにはピンと来ない。将来の王妃候補は何人かいたものの、目の前の女性はそのどれにも当てはまらない外見をしている。
女性は長い黒髪をファサっと舞わせた。
「ふむ。これが人間の体か。この髪とかいうもの。私の種族にはなかった」
「一体なんなんだ。あなたは」
女性の目が赤く光る。
「言ったであろう。我が夫と。貴殿が夫なら、わたくしは妻。それが人の世の常識ではなかろうか」
イグネイシャスは頭を抑えた。目の前の謎生物がチンプンカンプンなことばかり言うものだから、頭が痛くなってくる。
「それにしても、我が夫よ。なかなか美味な良い肉であった」
「は?」
「気づかぬか? わたくしは貴殿の化膿した肉を食っていた蛆だったもの。貴殿の肉を食うことで成長したのだ」
「蛆……ということは、あなたは蠅なのか?」
「まあ、生物学上はそうなる。ただ、貴殿の肉を食らいその遺伝子を取り込んだことでわたくしは人間の姿を手に入れることができた。それにしても、わたくしのこの喋り方はなんなのだ? 人間はこんなかしこまった言葉遣いをするのか? それにこの格好も動きにくい。実に不合理な服装だ」
女性はドレスの裾を手に取り、それをひらひらと動かして見せる。
「私は王だ。いや、王だったものだ。だが、王家の血を引いているのは間違いない」
「王? 王とはなんだ?」
「集団のリーダーみたいな存在だ」
「なるほど。ということは、王の遺伝子を取り込んだわたくしも王ということか」
「いや、女性の場合は女王と呼ぶ」
「なるほど。わたくしは女王で、貴殿は王と言う名なのだな」
「いや、王は称号で名ではない。私の名前はイグネイシャス」
「イグネイシャス。ふむ。良い響きだ。これから貴殿のことはそう呼ぼう。イグネイシャス」
女性はイグネイシャスのことを気に入り、はにかんだ笑顔を見せた。だが、イグネイシャスにも気になることがある。
「いくつか質問したいことがある」
「うむ。なんでも訊いてくれ」
「まず……そうだな。あなたの名前を教えて欲しい」
「わたくしに名はない」
「しかし、それでは呼ぶ時に不便だ」
「では、蠅の女王と呼ぶがよい」
あっけらかんと蠅の女王は答える。名前に対して強いこだわりはないと言わんばかりだ。
「では、蠅の女王。質問がある。まず1つ目。私が夫で、蠅の女王が妻とはどういうことだ?」
「わたしも人間の言葉の全てを知っているわけではない。だから、言葉の解釈が間違っていたら申し訳ない」
蠅の女王の前置きでイグネイシャスは安堵した。きっと、この蠅の女王は夫婦という概念を完全に理解しているわけではない。ただ、誤った解釈で使っているだけなのだと。冷静に考えれば、王という言葉を知らなかった存在である。だから、夫と妻という言葉を間違って覚えている可能性はあったのだ。
「人間は愛し合っているツガイのことをこう呼ぶのだろう? 夫がオスで、妻がメス。違うか?」
「意味はあってるけど違う。私は蠅の女王を愛しているわけではない」
「む。そうなのか? わたくしは、てっきりイグネイシャスに愛されているものだとばかり思っていた。だって、わたくしに肉を分け与えてくれたではないか。潰さないでいてくれたではないか。それは無償の愛というわけではないのか?」
王と言う言葉は知らなかったのに、それより難しい無償の愛を知っている蠅。イグネイシャスはこの奇妙な生物に段々と嫌気がさしてきた。
「言っておくが、人間の夫婦はお互いの同意があって初めて成立するものだ。どちらか一方が勝手に決めることは許されない」
「?」
「なんでわからぬのだ」
「おかしいな。メスがオスを選ぶのは生物の基本ではないのか? メスに選ばれて拒否するオスなんてわたくしは見たことがない」
「蠅の世界ではそうかもしれないけれど、人間の世界だとそうじゃない」
「面倒だな。人間って。話が通じないな」
蠅の女王には言われたくないと思ったイグネイシャス。だが、彼女からしたら人間の考え方の方がイレギュラーなのかもしれない。
人間の常識は他の生物にとっては非常識。そんな世界の真理を見たような気がした。
—――――
作者の下垣です。この小説を開いてくれたあなたに語り掛けています。
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